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大陸文化の畿内への玄関口
摂津から河内にかけての地域は、古代から極めて重要な場所であった。瀬戸内海を通って畿内に入るためには、まず、この地に上陸し、淀川、大和川などを通って、ヤマトや京都の地に向かうことになる。さらに、兵庫県の加古川や武庫川は、日本海から瀬戸内海を結ぶルートであり、摂津と河内は、そのルートとも直接つながっていた。
大陸から九州に伝わった稲作などの弥生文化は、畿内ではまず現在の高槻の安満遺跡に定着されたとされる。そして、この遺跡の背後にある安満宮山古墳からは、魏の年号「青龍三年(235年)が刻まれた青銅鏡が出ている。
また、摂津と河内は、渡来人が多く定着した地でもあり、彼らがもたらした技術が、日本国内の状況を大きく変化させていく力となる。
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茨木 海北塚古墳茨木には、4世紀前半に作られた大きな前方後円墳(縦穴式石室)があり、6世紀、その古墳のまわりに横穴式の石室を持つ古墳群ができる。これは、柴金山古墳の近くの海北塚古墳。 | 茨木 竜王山茨城童子が妖術の修行をしたとされる茨城市の竜王山の穴仏。 | 野間の大けやき。妙見山の北に位置する野間の大けやき。高さ27.37メートル、幹まわり13.01メートル、最大枝張は幅39.3メートル、高さ36.2メートルの巨樹。樹齢1000年。西日本のけやきでは最大。全国では4番目。 | 天照大神高座神社(大阪府八尾市)。式内社で唯一「天照大神」と名がつく神社。5世紀の下旬、ここで日神を奉斎していたのが、春日戸村主(かすかべのすぐり)という渡来系の人々だった。生駒山地の高安山の中腹、岩盤の上に本殿が鎮座している。また蘇我と物部の戦いの時、聖徳太子は秦河勝に命じて、この場所に教興寺を建立させた。 | 岩戸神社(大阪府八尾市)。天照大神高座神社と隣接し、かつては一つだった。岩の中に組み込まれるように建造されているが、おそらく、古代は、岩そのものが聖域だっただろう。 | 聖徳太子の御陵(大阪府太子町)。叡福寺にある聖徳太子御陵には、太子の母の穴穂部間人と、妃の膳部菩岐々美郎女(かしわで の ほききみのいらつめ)が合葬されている。 |
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美具久留御魂神社(大阪府富田林市)。鳥居の向こうに二上山が見える。この二つの場所のちょうど中間(3.5km)に、太子町の聖徳太子の御陵があり、この東西のラインをさらに東に行ったところに、三輪山の大神神社、宇陀の室生龍穴神社がある。 | 太子西山古墳(大阪府太子町)。第29代欽明天皇の皇后の石姫皇后と、第30代敏達天皇の合葬墳。全長約93メートル。磯長谷古墳群には天皇陵4基(敏達天皇陵・用明天皇陵・推古天皇陵・孝徳天皇陵)と、聖徳太子墓など約30基が存在するが、その中で唯一の前方後円墳であり、前方後円墳の造営が終了する直前の古墳である。 | 科長神社(大阪府太子町)の境内にある小野妹子の墓。 | 石神社(大阪府柏原市)。飛鳥時代の欽明天皇の皇后で、敏達天皇の母、石姫皇后を祭神とする。奈良時代、この神社に隣接していた智識寺の盧舎那大仏を見た聖武天皇は、国家権力とは関係のない人々の信仰の力だけで作られた大仏に感銘を受け、天然痘の流行で窮状に陥った社会を再建するため、東大寺の大仏を造立する決心をした。 | 鐸比古神社の奥宮(大阪府柏原市)。生駒山地の南端付近に鎮座する石神社の背後にそびえる高尾山の山頂にある磐座。このすぐそばから、多鈕細文鏡が出土し、弥生時代の高地性集落跡が発見された。 | 鐸比古鐸比賣神社(大阪府柏原市) |
高座神社(大阪府八尾市)岩戸神社と隣接する高座神社は、式内社だが、不動明王があり、密教色の強い異界的空間だ。 | 安養寺。(大阪府八尾市)恩智遺跡の近くの安養寺の裏山からの北麓と東麓から、銅鐸が二つ出土した。 | 壷井八幡宮河内源氏の氏神で、京都市の六孫王神社や川西市の多田神社と並ぶ源氏三神社の一つである壺井権現社がある。 | 交野 星田妙見妙見山の頂上に社殿があるが、その上に、古代からの聖域の磐座がある。 | 鏡伝池継体天皇が最初の宮を築いた樟葉の宮の近くの鏡伝池は、観月の名所だった。 | 茨木 医王岩 |
茨木の将軍塚古墳長いあいだ、中臣鎌足の墓だと思われていた茨木の将軍塚古墳。4世紀前半に作られた将軍山古墳に寄り添うように作られている。現在は、中臣鎌足の墓は、この古墳の北の阿武山の中腹の見晴らしの良いところに築かれた盛り土のない墓がそうではないかと言われている。 | 門真市・三島神社の薫蓋樟(くんがいしょう)幹周 /12. 5m、樹高/24. 4m、樹齢/1000年。 大阪府では最大の幹周の巨樹。「薫蓋樟」という名前は、クスノキの根本に建てられている幕末に活躍した公家・千種有文の歌碑に基づいている。 「村雨の 雨やどりせし 唐土の 松におとらぬ 樟ぞこの樟」 | 神服神社秦氏の一族、服部氏の拠点。芸能や織物を司っていた氏族。服部半蔵や、世阿弥、観阿弥は、その末裔。 | 中山寺 奥の院宇多天皇自らが天神を彫ったとされる宇多天皇御自彫天神。中山寺は、第59代宇多天皇の勅願寺である清荒神の真東にある。 | 宝塚 中山寺中山寺は、聖徳太子が建立したとされる日本最初の観音霊場とされるが、社伝には、大中姫と、その子で神功皇后と戦った麛坂皇子(かごさかのおうじ)、忍熊皇子(おしくまのおうじ)の追善供養のため、あるいは蘇我馬子との政争に敗れた物部守屋の霊を鎮めるために建立されたと伝わっている。 | 中山寺 白鳥塚古墳中山寺境内にある白鳥塚古墳。中山寺社伝で、仲哀天皇の先后である大中姫の墓と伝えられている。 また、大中姫の子で、神功皇后との戦いに破れた忍熊皇子もこの地に葬られ、神功皇后の子の応神天皇が慰霊の使者を送ったとされる。 |
今城塚古墳第26代継体天皇の古墳。宮内庁が継体天皇綾として定めているのは、ここから西に少し行ったところにある大田茶臼山古墳であるが、こちらは、継体天皇の時代よりも80年ほど古いため、考古学的には、今城塚古墳が継体天皇陵とされている。なぜ、宮内庁がそういう判断したかの理由は、今城塚古墳が、地震による破壊のため、当時、その姿をほとんどとどめていなかったためである。 | 清荒神境内の一番奥、不動明王を祀る龍王滝。清荒神は、第59代宇多天皇が、「理想の鎮護国家、諸国との善隣友好を深め戦争のない平和社会、万民豊楽の世界を開く」ために清荒神を作らせた。 | 恵解山古墳桂川、宇治川、木津川の合流点近く、大山崎の地にちある中期古墳時代の古墳。700点以上の鉄製の武器が発掘される。向日山の元稲荷古墳の真南に位置し、岩清水八幡のある男山の真北にある。 | 住吉大社住吉三神(筒男三神)は神功皇后の新羅征討において皇后に託宣を下し、その征討を成功に導いたとされる。 | 交野 磐船神社饒速日尊(にぎはやひのみこと)降臨の場所とされる。この磐座と、星田妙見宮の頂上の磐座は、キラキラと光る石英が混ざった同じ岩石だった。 | 石切劔箭神社饒速日尊(にぎはやひのみこと)を祭神とする。この地は、古代物部氏の拠点。 |
交野山山頂の観音岩生駒連山の北辺に位置する交野山(こうのさん)の頂上からは、大阪平野を見渡すことができる。この磐座の大きさは、周囲が40メートル、高さは20メートルある。 | 六甲比売神社六甲比命神社もまた大小様々な磐座から成る古くからの信仰の場である。六甲山全山は、かつて西宮の廣田神社の社領であった。六甲山は、旧名は向かつ峰だが、廣田神社の祭神、向津姫(瀬織津姫)との名称の一致がみられる。 | 生田神社 | 越木岩神社兵庫県西宮の甲山の西に鎮座する越木岩神社は、大小様々な磐座から成る古くからの信仰の場である。これは、稚比売命(わかひるめのみこと)の磐座。稚比売命は、水神・水銀鉱床の神である丹生都比賣大神の別名で天照大神の妹神であるとされる。神功皇后が三韓遠征の折り、丹生都比売大神の託宣により、衣服・武具・船を朱色に塗ることで戦いに勝利できたと伝わる。 | 多田銀銅山の瓢箪間歩。ここから出た銀が豊臣秀吉の財政を潤わせた。秀吉が、馬に乗ったまま、この坑道に入ったとされる。 | 甲山 遥拝所神功皇后ゆかりの甲山(兵庫県西宮市)。中腹にある建造物が、神呪寺。甲山の頂上には、神功皇后が甲を祀ったとされ、甲山を神体山とする廣田神社には、神功皇后が占術に用いた玉が納められている。廣田神社は、神功皇后の三韓征伐の際、神託に基づいて創建されたとされる。古代、廣田神社の前まで、入り江が迫り、天然の良港だった。 |
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