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千年の都 京都
現世と異世界の交わる世界
京都は、世界でも類を見ないほど長い期間、日本の都だった。京都より以前に都を置かれた平城京や藤原京など、どの都も数十年であったことを考えると、一千年という歳月は、別次元の長さだ。
京都は、鴨川と桂川という大河が東西に流れ、その上流に、度重なる戦乱や震災などがあっても復元できる材木資源の供給源と、それらを運ぶ河川に恵まれていた。
さらに、京都は、風水で言う理想の地形、四神相応の地であると言われるが、それ以上に、複雑で綿密な呪法の組み合わせによって創られており、今でも、至るところに、その徴を見ることができる。
比叡山が、東北の鬼門にあたることはよく知られているが、比叡山の麓、小野郷の八瀬に、桓武天皇の同母の弟で藤原種継暗殺の事件の関与を疑われて憤死した早良親王を祀る崇道神社がある。また京都の西の出入り口には、桓武天皇の母、高野新笠の陵墓がある。平安京に遷都した桓武天皇は、京都を守護するために様々な呪術を施している。
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鴨川 鴨川の源流、「雲ケ畑」の岩屋山志明院。650年に役小角が草創。その後829年、水源地を祈願し祀らなければ暴れ川である賀茂川は治まらず都の平穏はない 」と、淳和天皇の命で空海によって再興されたと伝わる。 | 花脊の三本杉。現存する樹木としては国内最高となる62.3メートル(右端の杉)、残りの二本も、国内第2位と5位。 | 貴船神社奥宮の船形石。神武天皇の皇母・玉依姫命が大阪湾から黄色い船に乗り、淀川・鴨川をさかのぼり、その源流である貴船川の上流のこの地に至った。その黄色い船(きふね)は人目に触れぬよう石で包まれ、船乗り達から「船玉神」として信仰されてきた。 | 交野天神社(大阪府枚方市)。5桂川、木津川、宇治川が合流するところ、石清水八幡宮が鎮座する標高143mの男山の南麓側に鎮座する。第50代桓武天皇が即位儀礼の郊祀を行なった場所であるが、第26代継体天皇が樟葉の宮を築いた場所でもある。さらに、この場所のすぐ東に、銅鐸出土地の式部谷がある。 | 太秦の蛇塚古墳。盛土がすべて無くなってしまった古墳で、有名な飛鳥の石舞台古墳のように石室がむき出しになっている。石舞台古墳は蘇我馬子の古墳とされ、たくさんの観光客が訪れるが、太秦の蛇塚古墳の石室は全長17.8メートルで、石舞台古墳に匹敵する規模なのだ。そして玄室の底面積の大きささは日本の古墳で6番目の大きさ。そして、石舞台古墳で使われている石材は、わりとどこにでもある花崗岩だが、太秦の蛇塚古墳の石材は、チャートである。 | 新日吉神宮京都東山区 新日吉神宮。豊臣秀吉が葬られている阿弥陀ヶ峰の西麓に鎮座する。阿弥陀ヶ峰(鳥辺山) を中心にして西に広がる山麓一帯は、平安時代以来、鳥辺野の呼ばれる墓所である。祭神は、松尾大社と同じ大山咋神(おおやまくいのかみ)。阿弥陀ヶ峰の真南には、秦氏が、松尾大社とともに神を祀った稲荷山がある。 |
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桂川、木津川、宇治川が合流し、淀川となるところ。豊臣秀吉の時代まで、この場所は巨椋池という京都府で最大の淡水湖であり、大阪湾と近畿内陸部を結ぶ水上交通の中継地として役割を果たし、多くの船舶が停留していた。 | 元稲荷古墳(京都府向日市)。弥生時代の高地性集落のあった向日山の上に紀元前3世紀後半に築造された前方後方墳。桂川、木津川、宇治川の合流点から真北に5km。東京の明治神宮は、この古墳の隣に鎮座する向日神社を1.5倍にして作られた。この交通の要所に継体天皇は弟国宮を築き、桓武天皇は長岡京を築いた。 | 月読神社(京都市西京区)。神功皇后の新羅遠征の時、応神天皇の出産を遅らせるために腹に巻いたと伝えられる月延石。月読神社の境内には、国譲りにおいてタケミカズチの副使として派遣された天鳥舟命(神が乗る船の名)を祭神とする御船社と、聖徳太子の霊を祀る聖徳太子社があり、聖徳太子の時代、桂川に面したこの地が、亀岡(丹波)を舞台にした戦いで活躍した海人勢力の前線基地だったことが想像できる。 | 月読神社(京都市西京区)の旧地月読神社は、現在、松尾山の麓に鎮座しているが、そこから真東500m、桂川と西芳寺川の合流点が月読神社の旧地で、弥生時代からの松室遺跡と隣接している。この場所は比叡山と愛宕山が見える絶景ポイントである。この場所の地名は「吾田神町」であり、南九州をルーツに持つ海人、「アタ隼人」との関連がうかがえる。 | 西芳寺古墳群(京都市西京区)。6世紀〜に築かれた群集墳で、京都盆地では最も古墳の密集度が高い。月読神社の現在地と旧地を結ぶラインの真西に位置しており、壱岐島から月読神と亀卜を畿内にもたらした氏族との関連が考えられる。 | 松尾大社松尾大社は、背後の松尾山が神奈備で、山中の磐座が聖所だった。701年、文武天皇の勅命で秦氏の秦忌寸都理(はたのいみきとり)が社殿を設けた。平安京遷都後、西の松尾大社は、東の賀茂神社とともに、「東の厳神、西の猛霊」と呼ばれ、平安京の守護神として尊崇された。祭神は、比叡山の麓にある日吉大社と同じ大山咋神(オオヤマクイ |
松尾大社松尾大社の本殿の裏にあり、松尾山の湧水が集まった滝で、日本の古くからの水神、罔象女神(みずはのめ)を祀っている。松尾大社は酒の神としても信仰されているが、松尾山からの湧水を酒に混ぜると腐らないという伝説もある。全国に創立された松尾神の分社は1,280社にも及ぶが、酒造りと堰や溜池などの灌漑事業を全国に広げた秦氏と関係が深い。 | 西賀茂大将軍神社磐長姫を祀る。平安京の大極殿の真北で、上賀茂神社のすぐ西に鎮座し、比叡山の雄大な姿が東に見られる。この神社の創建は、平安京遷都よりも150年以上も前の推古天皇の時代であるが、不思議なことに、西賀茂大将軍神社から平安京の政治の中心、大極殿までの距離は4.3kmで、大極殿から同じ距離を南に行ったところが、羅生門である。 | 沢の池 菩提の滝この滝つぼにたまった砂は、この地域一帯に植林されている北山杉の丸太を磨くのに用いられた。 | 保津川渓谷(京都市右京区)清滝川と桂川の合流点の一帯は、石器にも用いられた硬いチャートの岩盤が剥き出しである。京都市右京区の太秦には、飛鳥の石舞台古墳に匹敵する巨大な石室を持つ蛇塚古墳があるが、石舞台古墳の石室が花崗岩なのに対して、蛇塚古墳の石室はチャートを積み上げており、このあたりから切り出されて桂川の水運で運ばれたのかもしれない。 | 青蓮院天台宗の門跡寺院「青蓮院」境内の西側に5本のクスノキの巨木がある。背後の東山の山頂には、青蓮院の飛び地があり、そこに将軍塚がある。桓武天皇が奈良から長岡、さらに京都中心部へ都を移そうとしたとき、和気清麻呂と共に、この場所で京都を見下ろして遷都を決めたとされる。奈良時代から厄災が続いた後、「平和な都を作る」という願いを込めて、将軍の像を作り、その像をこの地に埋めて、塚を作った。都の安泰を祈ってつくられた将軍塚は、異変が起こりそうになれば鳴動した。 | 嵐山、渡月橋 |
首塚大明神。(京都市西京区)。京都と亀岡の境にある老ノ坂峠に鎮座する。平安時代の安倍晴明が活躍していた頃、源頼光と四天王が、丹波の大江山に住む酒呑童子を首領とする鬼たちを討伐し、京の都に凱旋する時、この場所に酒呑童子の首を埋めて塚を作ったとされる。丹波の鬼退治伝承は、歴史上、何度か繰り返されている。 | 愛宕山の麓 空也の滝 | 石清水八幡宮(京都府八幡市)。桂川、木津川、宇治川が合流する地の男山の山上に鎮座している。もともとは紀氏の領地であり、神職も紀氏が世襲してきた。伊勢神宮とともに二所宗廟の1つとして皇室から崇敬され、源義家が当社で元服したこともあって武家からは武神として信仰され、源氏の広がりとともに、当社から各地に八幡宮が勧請された。 | 貴船神社 奥宮 相生の大杉。 | 御影神社鴨川と高野川の合流点に鎮座する下鴨神社の元宮とされる。この神社の裏山の御生山(みあれやま)=御影山に、下鴨神社の祭神、賀茂建角身命が降臨したとされる。この御影神社と、上賀茂神社と愛宕山の頂上の愛宕神社は、東西一直線で同緯度である。 | 新日吉神宮の神木のスダジイ |
京都西北の小野郷。この地域には、岩戸落葉神社と大森賀茂(加茂)神社があるが、この2つの神社で、古事記・日本書紀には記されていない禊(みそぎ)の女神、瀬織津比賣神(せおりつひめのかみ)が祀られている。瀬織津比賣神は、 下鴨神社の境内末社にも祀られており(元の社地は高野川と鴨川の合流地点だった)、葵祭りに先だって斎王代が禊を行う。また、西宮の廣田神社の祭神、三韓征伐にて神功皇后を勝利へと導いたアマテラスの荒魂の向津姫は、瀬織津姫だという説もある。現代でも我々は、物事の区切りや通過儀礼として、禊という言葉を用いる。切り替えの速さは、天災に鍛えられてきたメンタリティである。浄めで生まれ変わることが、救いでもある。 | 桂川と鴨川の合流点 | 京都太秦の蚕ノ社の三本の鳥居京都太秦の蚕ノ社の三本の鳥居。鳥居の方向は、北は双ヶ岡、雲ヶ畑、西は松尾大社、東は石山寺を指している。 | 宇多天皇が埋葬されている大内山陵 | 伏見稲荷神社。稲荷山は、標高232メートル。一ノ峰、二ノ峰、三ノ峰という三つの峰に円墳があり、古くから神の降臨地とされていた。 その後、711年に、秦氏の伊侶巨秦公(いろこのはたのきみ)が勅命を受けて稲荷山の三つの峯にそれぞれの神を祀り、この地は、秦氏の聖所となった。 京都の太秦に拠点を置いた秦氏は、701年、松尾山に松尾神を奉鎮したが、7世紀頃、今の桂川の大堰を築堤して嵯峨野を開拓し、農業地へと発展させた。また、亀岡の湿地帯も秦氏によって開拓された。 奈良期から平安期にかけて、当時外戚として勢力を伸ばしていた藤原氏と姻戚関係を結び、長岡遷都やこれに引き続いて行われた平安遷都の際にも、河川の改修や都城の造営等で大いに力を発揮した。また、平安京遷都の前、長岡京への遷都を指揮して暗殺された藤原種継の母は、秦氏だった。 | 宇治平等院鳳凰堂宇治は、『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台。平等院の地は、9世紀末頃、光源氏のモデルともいわれる左大臣で嵯峨源氏の源融の別荘だったが、後に、藤原道長の別荘「宇治殿」となった。道長の子の頼通は「宇治殿」を寺院に改め、西方極楽浄土をこの世に出現させたかのような阿弥陀堂が建立された。開山は小野道風の孫で、小野氏の系譜に連なる明尊である。 |
沢の池京都盆地の北、愛宕山と比叡山のあいだに、西から、毘沙門山、西沢ノ山、沢ノ山、吉兆山、桃山、比叡山がきれいに見える。そのど真ん中の沢ノ山の西に沢ノ池があり、この周辺では、旧石器時代から平安時代にかけての様々な遺物が発見されている。 この沢ノ山の地を源流として、川は東西に流れ、東は天神川となり、西は清滝川となり、ともに桂川に合流し、やがて宇治川や木津川とも合流して淀川となり、大阪湾へと注ぐ。 | 宇治上神社祭神は、応神天皇と和珥氏の日触使主(ひふれのおみ)の娘、矢河枝比(やかひめ)との間に生まれた皇子、宇遅之和紀郎子(うじのわきいらつこのみこと)。天皇に寵愛され皇太子となるが、異母兄の大雀命(おほさざきのみこと)、のちの仁徳天皇に皇位を譲るべく自殺した。古代、宇治川は、和邇氏(小野氏の祖先)の勢力下にあった。 | 東福寺 | 武信稲荷神社幕末の頃、京都見廻組や新撰組などから命を狙われ身を隠していた坂本龍馬。彼の妻となった楢崎 龍(ならさき りょう)は、二人がよく会っていた武信稲荷神社の榎の木(左ページの写真)に「龍」と刻まれた字を見て、龍馬が生きていると知り、再開を果たすことができたというエピソードがある。 | 山住神社の磐座(岩倉)神体は拝殿背後の磐座で、古代祭祀の神座だった。平安京遷都の時、京都を守護するために定めれた東西南北4つの磐座の1つ。江戸時代末期、岩倉具視は、倒幕急進派の弾劾を受け、5年間、この地に幽棲していた。『源氏物語』で、光源氏が、生涯にわたって大切にした紫の上と出会ったところも、この岩倉である。 | 双ヶ丘太秦に鎮座する蚕ノ社の真北に三つの丘があり、その頂上に、古墳がある。一番北の丘の頂上には首長クラスの陵墓、一番南の丘には群墳がある。秦氏のものと考えられている。 |
京北、常皇勝寺 | 白川源流。比叡山と大文字山のあいだの花崗岩地帯から流れる白川は、花崗岩の白い岩盤を削って、その白砂を運ぶ。そして、祇園をとおり、鴨川に合流する。中世に建造された銀閣寺など、京都の有名な寺の石庭で、この白砂が使われた。 | 建仁寺開山は栄西。1202年、鎌倉幕府2代将軍・源頼家の援助を得て、京都における臨済宗の拠点として建立された。俵屋宗達の「風神雷神図」、海北友松の襖絵などを伝える。 | 比叡山横川。道元禅師得度霊跡 | 武信稲荷神武信稲荷神社 樹齢約850年の榎の木平重盛が安芸の宮島厳島神社から苗木を移したと伝えられている。弁財天が宿るといわれ、その生命力とエネルギーから健康と長寿の神として信仰を集めている。 | 西本願寺 JR京都駅のすぐ近くに、浄土真宗の東本願寺と西本願寺がある。織田信長と戦った石山本願寺は、和睦派と抗戦派の2つに分裂し、和睦派は豊臣秀吉の保護を受け西本願寺を建立。その後、徳川家康は、本願寺勢力の分断を画策し、抗戦派に寺地を寄進して東本願寺を別に建てさせた。その結果、西本願寺は、繊細優美な桃山文化を色濃く伝え、東本願寺は、武骨ながら、建築面積において世界最大の木造建築物である。 |
崇道神社平安京遷都の際、桓武天皇が早良親王の祟りを恐れて、その魂を鎮めるため、京都の鬼門にあたる比叡山の麓、八瀬の小野郷に創建した崇道神社。 | 岩清水八幡。背割堤地かつては平安京の南、朱雀の地、巨椋があったところ。現在は、淀川、木津川、宇治川合流地点。 | 円山公園の祇園枝垂桜円山公園内の東北の隅にある安養寺(あんようじ)は、 法然・親鸞両上人の念仏発祥の地、「吉水草庵」旧跡として知られる。法然は、30数年間、ここを本拠にして専修念仏の教えをひろめ、後に親鸞が、この地に法然を訪ねて入信した。法然の母親は、秦氏である。 | 桂川から望む愛宕山 | 京都最大の前方後円墳。天皇の杜古墳。(紀元4世紀)京都最大の前方後円墳。天皇の杜古墳。(紀元4世紀) 京都の桂川よりも西から亀岡との境にあたる大枝山あたりには、京都で一番古い神社、松尾大社があり、京都で最大の前方後円墳、天皇の杜古墳がある。この古墳が作られたのは4世紀。そして、桓武天皇の母親で土師氏と百済系渡来人の混血である高野新笠や、桓武天皇の妃の藤原旅子の陵墓がある。さらに、西の端の大枝山の老ノ坂には鬼の首塚がある。 桂というのは、カツラの木のことではなく、古代中国において、月に生えていると考えられていた想像上の樹木のこと。だから、桂川沿いに桂離宮があるが、あれは観月のための舞台であり、その下流には、渡月橋という名の橋もある。すなわち、桂川を西に超えることは、月の世界、つまり、あちらの世界なのだ。 | 今熊野神社後白河法皇の創建。樹齢900年と言われる楠の大木。 |
嵯峨野 嵯峨野の竹林。この中に、伊勢神宮に仕える斎王が伊勢に赴く前に身を清める場所であった野宮神社が鎮座している。野宮神社は、『源氏物語』の第十帖、賢木(さかき)の巻に登場する。斎宮となった六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)の娘、後の秋好中宮(あきこのむちゅうぐう))が、野宮で潔斎生活を送り、母娘とともに伊勢に向かう直前、光源氏が野宮神社を訪ねる。光源氏と悲しい恋に落ちた六条御息所は、源氏物語の中で、源氏の正妻である葵を呪い殺すなど、怨霊として何度も登場する重要な登場人物である。 秦氏の氏寺ゆかりの広隆寺や蚕の社などがある太秦の西、嵯峨野は、古代、秦氏によって開拓された。秦氏は、桂川に堰を築き、その水を灌漑用水として利用して農地を発展させた。また、山林開発の神を松尾山に祀り(松尾大社)、農耕守護の神を稲荷に祀った。 | 愛宕山山頂 愛宕神社 | 首塚大明神(鬼の首塚)古代、老ノ坂は、山城国と丹波国の境にあった。峠の南には、大江山(大枝山)480mがある。平安時代、ここに酒吞童子という鬼が住み着いていたとされる。 源頼光たちが鬼を退治し、その首を京へ持ち帰ろうとしたが、老ノ坂付近でその首を持ち上げることができなくなってしまった。そこで、その首を、ここに埋めたとされる。 | 金剛王院(一言寺)醍醐寺の塔頭、別格本山の金剛王院(一言寺)の樹齢800年といわれるヤマモモの木。平安京の東南、風門にあたるところに小野小町が暮らしていた小野郷があり、ここに醍醐寺がある。この近くを流れる山科川は、宇治川と合流し巨椋池に至り、海上交通の要所だった。 | 大原野神社紫式部の氏神で、京都の人門(西南)の位置にある。紫式部が源氏物語を執筆した近江の石山寺の真西に位置し、源氏物語の舞台となる宇治橋は冬至の日の日の出方向にある。 | 高野新笠の陵墓。桓武天皇の母、土師氏と百済からの渡来人のあいだに生まれた高野新笠の陵墓。松尾大社の西、京都と亀岡のあいだには、高野新笠の陵墓や、桓武天皇の妃で淳和天皇の母親である藤原旅子の陵墓などがある。 |
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