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Sacred world,  Our great spirit from ancient time

Kii,Yoshino Area

古代史を解く鍵 紀伊、吉野

 紀氏は紀氏集団とも言える力量のある氏族であった。大和王権の朝鮮半島への出兵に絡む記事が多い。紀の川河口での朝鮮系遺物の出土、瀬戸内海沿岸での同族の分布、造船、海部の取り込み等がこれを裏付けている。 大和王権の水軍の基幹を担当していたか、紀氏が一時はこの国を代表する王権ではなかったかとする説もある。

 奈良県から和歌山県へと流れ、紀伊水道に注ぐ紀ノ川は、瀬戸内海や太平洋とヤマトの地を結ぶ大河である。そのため、ヤマト王権との関わりが深い。この流域を支配していた紀氏は、大和王権の朝鮮半島への出兵に絡む記録が多く残されている。そして、紀の川河口での朝鮮系遺物が多く出土し、瀬戸内海沿岸の海上交通の要の地にも紀伊氏と同族が多く分布している。紀の国は、木の国でもあり、そのため造船に携わって大和王権の水軍を担当していたか、紀氏自体が、一時は古代日本の王権ではなかったかとする説もある。

 紀ノ川河口に近い日前神宮は、もともとは、木と造船の神、五十猛神が祀られていた。また、日前神宮に近い岩橋千塚古墳群には、確認されているだけでも850基以上の古墳があり、全国でも最大級の古墳群である。

 そして、紀ノ川の中流から上流にかけては吉野川と呼ばれるが、熊野と大和を結ぶ吉野の地は、古代、歴代の天皇や貴族が訪れる遊興の地だった。

 吉野川沿いは、縄文や弥生の時代から多くの人々が住み着き、祭壇と見られる環状配石遺構も発見されている。

 仏教伝来後は、吉野においても多数の寺院が建てられている。さらに、役小角が、山岳信仰と仏教を習合した日本独自の修験道を開いた。弘法大師空海は、815年、吉野川流域の五條市犬飼町の辺りで道に迷っていると、「南山の犬飼」と名乗る狩人に出会い、その導きにより、高野山にたどり着いたという伝承がある。狩人は、丹生都比売の息子の狩場明神(かりばみょうじん)とされ、高野山を守る四明神(気比、厳島、丹生都比売、狩場)の一つになっている。

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