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Sacred world,  Our great spirit from ancient time

Kii,Yoshino Area

丹生 南朝-4
丹生 南朝-6
丹生都比売神社-2
Inomori
Nichizenjingu
Saigyoan
Okunoin-5
高野山 奥の院
立里荒神
天河
 Yoshino rikyu
NIukawakamijinjya
吉野川

古代史を解く鍵 紀伊、吉野

 紀氏は紀氏集団とも言える力量のある氏族であった。大和王権の朝鮮半島への出兵に絡む記事が多い。紀の川河口での朝鮮系遺物の出土、瀬戸内海沿岸での同族の分布、造船、海部の取り込み等がこれを裏付けている。 大和王権の水軍の基幹を担当していたか、紀氏が一時はこの国を代表する王権ではなかったかとする説もある。

 奈良県から和歌山県へと流れ、紀伊水道に注ぐ紀ノ川は、瀬戸内海や太平洋とヤマトの地を結ぶ大河である。そのため、ヤマト王権との関わりが深い。この流域を支配していた紀氏は、大和王権の朝鮮半島への出兵に絡む記録が多く残されている。そして、紀の川河口での朝鮮系遺物が多く出土し、瀬戸内海沿岸の海上交通の要の地にも紀伊氏と同族が多く分布している。紀の国は、木の国でもあり、そのため造船に携わって大和王権の水軍を担当していたか、紀氏自体が、一時は古代日本の王権ではなかったかとする説もある。

 紀ノ川河口に近い日前神宮は、もともとは、木と造船の神、五十猛神が祀られていた。また、日前神宮に近い岩橋千塚古墳群には、確認されているだけでも850基以上の古墳があり、全国でも最大級の古墳群である。

 そして、紀ノ川の中流から上流にかけては吉野川と呼ばれるが、熊野と大和を結ぶ吉野の地は、古代、歴代の天皇や貴族が訪れる遊興の地だった。

 吉野川沿いは、縄文や弥生の時代から多くの人々が住み着き、祭壇と見られる環状配石遺構も発見されている。

 仏教伝来後は、吉野においても多数の寺院が建てられている。さらに、役小角が、山岳信仰と仏教を習合した日本独自の修験道を開いた。弘法大師空海は、815年、吉野川流域の五條市犬飼町の辺りで道に迷っていると、「南山の犬飼」と名乗る狩人に出会い、その導きにより、高野山にたどり着いたという伝承がある。狩人は、丹生都比売の息子の狩場明神(かりばみょうじん)とされ、高野山を守る四明神(気比、厳島、丹生都比売、狩場)の一つになっている。

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芝崎の奇岩(奈良県五條市)。

芝崎の奇岩(奈良県五條市)。

ここは、日本列島を南北に分断する巨大断層、中央構造線の上であり緑色片岩が露出している。硬い岩盤のために侵食されず、吉野川が大きく蛇行している。この真北1.5kmにコノハナサクヤヒメを祭神とする阿陀比売神社が鎮座する。あたり一帯は、南九州出身の海人、隼人の居住地だった。

伊太祁曽神社の元宮、亥の森

伊太祁曽神社の元宮、亥の森

紀国(和歌山)は”木国”であり、五十猛神の土地である。五十猛神は、木と船の神なので、船木氏のイメージが重なる。また、紀国は、中央構造線上にあり、水銀の産地である”丹”という地名が多い。五十猛神は、もともと、現在の日前神宮・国懸神宮のところに祀られていて、その後、この写真の「亥の森」のところに移り、さらに現在の伊太祁曽神社に移された。

日前神宮・国懸神宮

日前神宮・国懸神宮

和歌山市の日前神宮・国懸神宮は、現在は、一つの境内の中に二つの神社が鎮座し、ともに、伊勢神宮内宮の神宝である八咫鏡と同等のものとされる鏡を御神体としている。この二つの鏡は、アマテラスが岩戸に隠れてしまった時、誘い出すために作られた鏡であるが、あまり美しくなかったために使われなかったものという、不可解な意味付けがなされている。つまり、出どころは同じだけれど、正当でなかったものということになる。しかし、この二つの神宮は、真南に向かう鳥居の正面にはなく、左右に分かれて鎮座しており、その正面の空間には、かつて五十猛神が祀られていた。

吉野川 芝崎の奇岩

吉野川 芝崎の奇岩

日本を南北に分断する巨大な断層、中央構造線上にある。 この場所のすぐ近くに阿多姫神社が鎮座し、コノハナサクヤヒメが祀られているが、コノハナサクヤヒメは、隼人の女神であり、このあたりもまた隼人の居住地であった。

立里荒神

立里荒神

荒神岳(1260m)の山頂に鎮座する。高野山の奥社にあたる。応神天皇と火雷神を祀る。京都の愛宕山も火雷神を祀るが、愛宕山とは南北のライン上で同経度である。

吉野 波宝神社

吉野 波宝神社

吉野三山の銀峰山の山頂に鎮座している。吉野三山は、中央構造線に位置し、金山、銀山、銅山と、鉱物資源と関係がある。この波宝神社に、かつて天津羽羽神(阿波姫)が祀られていたと、江戸時代の儒学者であり神道家であった林泰山が記述している。

宮滝遺跡(吉野離宮)

宮滝遺跡(吉野離宮)

吉野の宮滝遺跡のすぐ下の吉野川。縄文遺跡と弥生遺跡が重層している。近年の発掘調査によって、ここが吉野離宮でないかと推定される。持統天皇は吉野宮に33回も行幸している。ここが吉野宮であるかどうかの議論は続いているが、縄文、弥生の集落があったことは発掘調査でわかっており、この河原で、古代人が身体を洗い、炊事を行っていたことは間違いない。

吉野 西行庵。

吉野 西行庵。

「願わくば花の下にて春死なむその如月の望月の頃」 俗世間を離れ、桜の名所、吉野に三年間、侘び住いをした西行。西行を師と仰ぐ芭蕉は、ここを二度訪れた。西行よりも後の時代の俳人や茶人も質素な庵で侘び住いをしているが、西行庵は、それらとは比べ物にならないほど小さく、そこに至る道のりも険しいものだ。こんなところで冬も過ごしたのかと、西行の澄み切った覚悟に圧倒される。

高野山 奥の院

高野山 奥の院