未来も過去も、目に見える世界の基準を超えたところに存在している。そのため、目に見えている物に意識を限定させる映像ではなく、見えるものと見えないものの間に対する想像力を養う映像が、過去と現在と未来の橋渡しになるような気がする。
過去と未来の橋渡しになる映像を
一一般的な写真撮影は、被写体を探して狙い撃つ性質があり、「撮影する」を英語にすると、shootとなる。カメラのシャッターは拳銃の引き金である。
しかし、私たちは、いつも獲物を狙うような目で風景と向き合っているわけではない。
どちらかというと、私たちは、風景を見るのでなく眺めるように暮らしている。そして、無意識のうちに、そこに漂うものや蠢くものを感知して、記憶化している。
フランス語のデジャ・ビュ(既視感)のように、わけもなく懐かしいと感じることについて、フロイトは、自分では実際に体験していなくても、夢の中ですでに観ているからだと説明した。しかし、理由はそれだけとは限らず、人生の中で、無意識のうちに記憶化している情景が膨大にあるからだとも言える。
私たちの意識は、個人の自我や社会の常識と強く結びついているが、無意識は、自分個人の生涯には収まりきらない人類の潜在的記憶と呼ぶべきものと結びついて反応している。
ピンホールカメラはシャッターやファインダーがなく、0.2mmほどの針穴を長時間開くことで写す道具なので、意識的に何ものかを撃つのではなく、無意識のうちに何ものかを招き入れるという感覚の写真行為となる。その結果、生じる画像は、有名でフォトジェニックな歴史的建物よりも、岩や樹木や川の流れといった何気ない自然物の方が、自分の心の深いところに響いてくることが多い。
現代社会で物事を判断する時、数かぎりない分別の尺度で選別するが、森羅万象は互いに優劣はなく、等価に連関して存在している。そして歴史は単なる過去の記録ではなく、私たちを育み、私たちが還っていくところである。そんな当たり前のことすら私たちは忘れているが、何かしらのきっかけで森羅万象の摂理と歴史の摂理が重なって見える時、私たちは、自分という存在もその一部であることを、それとなく察することができる。
Sacred Worldというのは、天国のような特別な場を指すのではなく、世界の普遍性を反映する根源的な場のことであり、その根源性は、森羅万象の中を生きる全てのものに等価に行き渡っている。
佐伯剛