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Sacred world,  Our great spirit from ancient time

Tanba,TangoWakasa

比沼真名井神社-7
ほづかわ-74
ほづかわ-86
ほづかわ-84
日本海-9
舞鶴-2
舞鶴-11
瓜破の滝
綾部 私市古墳
天岩戸神社
由良川
久見浜湾
玉依神社
日室岳遥拝所
出石神社
神谷神社-5
Nishihonganji-58
比沼真名井神社-9
比沼真名井神社-10
比沼真名井神社-8
Nishihonganji-44
Nishihonganji-12
Nishihonganji-67
Nishihonganji-50
Nishihonganji-4
Nishihonganji-77

 古代の船は風と潮の流れに頼るしかなかった。その為、朝鮮半島の南西部、百済あたりから船に乗ると九州に上陸し、南東部、新羅あたりから船に乗ると若狭湾に上陸したと考えられている。

  瀬戸内海は、小島が多いために潮の流れが複雑で、航海は易しくはなかった。そのため、大陸から畿内へと至るために、日本海側から兵庫県や福井県の河川を利用する道が重要で、海人と呼ばれる人々が活躍した。彼らが開いた道は、住吉神など海上交通と関わりの深い神が要所に祀られていることで想像できる

 また、現在、但馬、丹後、丹波と呼ばれる地域は、かつては丹波王国だったが、この地域には、重要な鉱山が多く、さらに都の建設や造船に欠かせない森林資源も豊富だった。それらは、大陸からの交易物とともに、河川を通じて、ヤマトや京都へと運ばれていった。

i日本海からヤマトへの道

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間人(たいざ)の立岩。

間人(たいざ)の立岩。

日本海で2番目に大きな神明山古墳(全長190m)の近くの立石。高さ20メートルにも及ぶ日本でも最大級の巨大な一枚岩の柱状の玄武岩である。 聖徳太子の異母弟の麻呂子親王によって追い詰められた鬼が、ここに閉じ込められたとされる。  この岩のそばに、日本海を見つめる母子像が設置されている。聖徳太子の母親、穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)と、聖徳太子だ。  物部氏と蘇我氏が争っている時、聖徳太子の母親は、この地に身を寄せていたが、宮に戻る時、自分の名前、”間人”をこの地に贈ったとされる。しかし、そのままその名前を呼ぶのは畏れ多いからと、地元の人は、間人と書いて、”たいざ”と呼ぶ。

阿古谷神社(兵庫県豊岡市竹野町)。

阿古谷神社(兵庫県豊岡市竹野町)。

竹野川を海岸から2.5m遡ったところの見蔵岡遺跡は、縄文中期から後期のものを主体とする石器が669点も出土し、さらに西日本で初めて、縄文の祭祀道具「石棒」の製造跡が発見された。見蔵岡遺跡から竹野川を1.5kmほど遡った高台に阿古谷神社が鎮座し、祭神は土師氏の祖神とされる。

兵庫県豊岡の玄武洞。

兵庫県豊岡の玄武洞。

1929年、松山基範によって、ここの玄武岩の持つ磁気が現在の地磁気と反対の向きを指していることを発見し、かつて地球の磁場が反転したとする説を発表した。この説は広く認められるようになり、現在では260万年前から78万年前までは現在と反対向きであったことが認められている。

大宮賣神社(京都府京丹後市)。

大宮賣神社(京都府京丹後市)。

祭神の大宮売神は、『古語拾遺』等によるとアメノウズメ神と同神とされている。境内一帯から、弥生時代前期以降の数多くの遺物が出土した。古墳時代の祭祀遺物も多数発見されており、弥生時代から長期間にわたる聖域であることを、考古学的に示している。

淀の洞門(兵庫県豊岡市竹野町)。

淀の洞門(兵庫県豊岡市竹野町)。

豊岡は西日本の火山帯の東端にあたる。近畿でもっとも新しい火山噴火である神鍋火山の噴火は2万5千年前で、山頂には今でも噴火口が残っている。豊岡市における火山性の大地は、円山川流域は玄武洞に代表される玄武岩、その西の竹野川流域は、淀の洞門に代表される流紋岩となっている。

篠村八幡宮(京都府亀岡市)。

篠村八幡宮(京都府亀岡市)。

足利尊氏が倒幕のために挙兵をした場所。その時、武将たちとともに矢を埋納した矢塚が境内に残る。また、足利尊氏は、後醍醐天皇と決別し、京都攻防戦で敗れた後、この場所で敗残の味方の兵を集めるとともに社領を寄進して再起祈願を行なった。

亀岡の保津川渓谷の入り口。

亀岡の保津川渓谷の入り口。

請田神社と桑田神社が川の両岸に鎮座する。神話では、かつては泥地だった亀岡盆地の開拓のため、大山咋神(オオヤマクイノカミ=保津川渓谷を抜けた京都の松尾大社の祭神)が、この場所で保津川の開削を行ったとされる。桑田の「くわ」は鍬で、請田神社の「うけ」は、鍬入れを受けたことだとされる。

穴太寺(京都府亀岡市)。

穴太寺(京都府亀岡市)。

705年に創建されたと伝えられる。森鴎外の小説「山椒大夫」で知られる安寿と厨子王丸の悲話で、安寿が厨子王丸を逃がし都へ上る途中、穴太寺は厨子王丸をかくまったとされ、2人が山椒太夫から過酷な責めを受けた時、その苦しみを代わりに受けてくれた厨子王丸肌守御本尊が、ここに安置されている。

小幡神社(京都府亀岡市)。

小幡神社(京都府亀岡市)。

708年創建の式内社。穴太寺のすぐ傍、犬飼川沿いに鎮座し、当麻氏の祖の開化天皇、彦坐王、小俣王の三世代を祀る。この場所から西2kmほどの稗田野神社までの所で、縄文・弥生時代から奈良時代に至る巨大都市遺跡が発見された。

籔田神社(京都府亀岡市)。

籔田神社(京都府亀岡市)。

式内社で祭神が月読神。亀岡には月読神を祀っている式内社が3社ある。月読神は、三貴神のなかで、アマテラス大神やスサノオに比べて、祀っている神社は非常に少なく、記紀での登場も限られている。それゆえ、亀岡と月読神のつながりが際立っている。

摩気神社(京都府南丹市)。

摩気神社(京都府南丹市)。

本殿は北を向いている。式内社(名神大社)。杮葺の上に茅葺がかかり、独特の風情がある。一間社の社殿としては京都府下においても最大規模。 祭神は、大御饌津彦命 (おおみけつひこのみこと)。膳氏や安曇氏が職務としていた食膳に関わる御食津神である。

雲部車塚古墳(兵庫県篠山市)。

雲部車塚古墳(兵庫県篠山市)。

第10代崇神天皇の時代、四道将軍の1人として丹波の討伐に派遣された丹波道主命の陵墓だと治定されている。前方後円墳で、全140m兵庫県で二番目の大きさを誇る。

瓜破の滝

瓜破の滝

日本を代表する名水の地。周辺は、膳氏の拠点。

日室岳遥拝所(元伊勢 皇大神社)

日室岳遥拝所(元伊勢 皇大神社)

鬼伝説の大江山の日室岳の遥拝所。夏至の日、この山頂に太陽が沈む

豊岡の竹野浜

豊岡の竹野浜

江戸時代、日本浜三景の一つとされた記録もある。サンゴ礁のように白い砂浜が広がり、海の色も美しいブルーで、海岸線には賀嶋山など奇峰がそびえるが、これらは流紋岩地帯ならこその景観。流紋岩は緻密で硬く侵食に耐えるため、分布域は、美しいシルエットの小高い山になりやすい。

綾部 私市山古墳

綾部 私市山古墳

由良川のほとり、京都府で最大の円墳。円墳じたいは直径70mの大きさだが、小山の頂上に建造されており、小山それ自体が古墳のようである。さらに、この古墳から360度のパノラマ風景が素晴らしい。  頂上には、2人の王の墓がある。2人の王は、正確に東西の方向を向いて横たわっており、武具や農工具、鏡、玉類等の副葬品が膨大に出土しており、38本の矢が収められた胡籙(やなぐい)も出土している。

玉依神社

玉依神社

亀岡と高槻・茨木のあいだの山間部に鎮座する玉依神社。神武天皇の皇后、媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)の母を祀る。

作山古墳。

作山古墳。

日本海で3番目に大きな蛭子山古墳に隣接。同時代の4世紀中旬の建造。

伊也神社(京都府綾部)

伊也神社(京都府綾部)

由良川と上林川が合流する場所に鎮座する。京都府綾部市は、古代の何鹿郡(いかるがぐん)であるが、12の式内社がある。これは全国的に見ても、多い。この伊也神社もその一つ。磐座が御神体で、第10代崇神天皇の時の丹波や丹後の地の鬼退治と関係のある四道将軍の1人、丹波道主命と関わりが深い。  この神社の祭神は、月読神と素戔嗚神と、大日靈賣尊(オオヒルメノミコト)だ。大日靈賣尊というのは、アマテラスの幼名で、天の岩戸に隠れる前の名前である。

竜宮浜(京都府舞鶴市)

竜宮浜(京都府舞鶴市)

竜宮浜(京都府舞鶴市)

竜宮浜(京都府舞鶴市)

岩上神社(京都府舞鶴市)

岩上神社(京都府舞鶴市)

社殿が築かれている乳白色の岩塊は、2億年以上前の石灰岩層が露出したもの。

大丹生神社(京都府舞鶴市)

大丹生神社(京都府舞鶴市)

舞鶴にも丹生という地名が。この丹生集落の海岸線に、石炭火力発電所が新設された。福井は原発が多いが、なぜここに石炭火力発電なのか。日本海に面しているから、中国やロシアの石炭かと思えば、オーストラリアからの輸入だという。

多禰寺。(京都府舞鶴市)

多禰寺。(京都府舞鶴市)

麻呂子親王の開基とされる。この寺の仁王像は、東大寺、清水寺に次いで、日本で三番目に大きい。

平八幡神社(京都府舞鶴市)

平八幡神社(京都府舞鶴市)

八幡神社なのに、祭神は、応神天皇や神功皇后ではなく、天照大神。そして麻呂子親王が合祀されている。この神社は、丹後のかぐや姫伝承と関わりの深い竹野川流域の、竹野神社境内の斎宮(いつきのみや)が勘定されたもの。竹野神社のある場所は、麻呂子親王が追い詰めた鬼がこもった間人の立岩のすぐそば。その境内には、麻呂子親王ではなく日子坐王が合祀されている。日子坐王は実在性が疑わしいが、麻呂子親王の別名、当麻皇子の当麻氏の祖。

亀岡の宮川神社。

亀岡の宮川神社。

神武天皇の皇后、媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)の母親の玉依比売の母親の 伊可古夜比売命(いかこやひめのみこと)を祀る。

由良川

由良川

日本海と畿内中央部をつなぐ大動脈。

久見浜湾

久見浜湾

右側がかぶと山(神山)。神谷磐座にいると、夏至の日、ここから太陽が昇る。

天岩戸神社(元伊勢 皇大神社)

天岩戸神社(元伊勢 皇大神社)

皇大神社の傍を流れる五十鈴川に鎮座する。

八百比丘尼が800歳の時に入定したと伝わる洞窟(小浜)

八百比丘尼が800歳の時に入定したと伝わる洞窟(小浜)

神谷太刀宮神社(久美浜)

神谷太刀宮神社(久美浜)

第10代崇神天皇によって丹波・丹後に派遣された四道将軍の一人、丹波道主命を祀る。丹波道主命が身につけていたという宝剣【国見の剣】を祀っているため【太刀宮】と呼ばれる。この地には巨大な盤座があり、太陽や星の位置との関わりが指摘されている。この岩の裂け目は真北を指し、夏至の日、かぶと山から昇る朝日が、この磐座の中心を照らす。古代太陽祭祀の跡と考えられている。

真名井神社

真名井神社

籠神社の奥宮、真名井神社。伊勢神宮の外宮に祀られている豊受大神は、内宮のアマテラスの食事係とされているが、そうした位置付けに反発して、もともとは伊勢神宮全体の神主だったのに内宮が中臣氏系の荒木田氏が神主となった後は外宮の神主に限定された度会氏は、伊勢神道なるものを創造し、豊受大神はアマテラスが生まれる以前に存在した宇宙創造神で、天御中主と同じだという主張を展開した。  京丹後は、この豊受大神のルーツであり、その候補の一つが籠神社の奥宮、真名井神社。  ここでの豊受大神は、天地創造の最高神として崇められる。

若狭神宮寺

若狭神宮寺

出石神社

出石神社

祭神は、謎の多い渡来人の神、天日槍。神功皇后の祖先にあたる。

比沼麻奈為神社(ひぬまないじんじゃ)

比沼麻奈為神社(ひぬまないじんじゃ)

伊勢神宮の外宮に祀られている豊受大神は、内宮のアマテラスの食事係とされているが、そうした位置付けに反発して、もともとは伊勢神宮全体の神主だったのに内宮が中臣氏系の荒木田氏が神主となった後は外宮の神主に限定された度会氏は、伊勢神道なるものを創造し、豊受大神はアマテラスが生まれる以前に存在した宇宙創造神で、天御中主と同じだという主張を展開した。  京丹後は、この豊受大神のルーツであり、その候補の一つが、この比沼麻奈為神社。  比沼麻奈為神社の方は、籠神社の奥宮の真名井神社と違って、豊受大神は伊勢に移られたので、分霊をひっそりと祀っており、慎ましくて控えめで、清潔感が漂う。  そして、こちらは、羽衣伝説にもとずく聖所であり、天女が豊受大神なのである。

籠神社の前の海から見る天橋立

籠神社の前の海から見る天橋立

亀岡の御霊神社。

亀岡の御霊神社。

祭神は吉備津彦命。この神社の目の前から、つい最近、巨大な古代都市、古代寺院遺跡が発見され、現在も調査中だ。

片波川の巨大伏条台杉群

片波川の巨大伏条台杉群

京都は、世界でも類を見ないほど長い期間、日本の都だったが、度重なる戦乱や震災などがあっても復元できる材木資源の供給源と、それらを運ぶ河川に恵まれていた。木材の搬出は筏(いかだ)流しが主流だった。 京都市の北部、桂川の上流の京北には朝廷と縁の深い常照皇寺があるが、その北部の片波川源流域の巨大伏条台杉群は、平安時代に禁裏御料に指定された杣(そま)で、現在でも、樹齢1000年という巨大な伏状台杉が多数存在する。かつては、平安京の造営や新築用材の重要な供給地だった。

丹後 皇大神宮

丹後 皇大神宮

丹後 皇大神宮 京都府福知山市の皇大神社。天照大神は、古くは宮中に祀られていた。この神の祟りを畏れ、第10代崇神天皇の時から鎮座地を求めて各地を転々とし、最終的に、倭姫命(ヤマトヒメノミコト)によって伊勢に落ち着くが、それまでの間に訪れた一時遷座地は、各地で元伊勢として語り継がれた。ここは、そうした元伊勢伝承地の1つ。

敦賀 気比神宮

敦賀 気比神宮

敦賀は、朝鮮半島や中国東北部から畿内への玄関口にもあたる。 『古事記』『日本書紀』では、第14代仲哀天皇が角鹿(敦賀)に「笥飯宮」を営み、天皇の紀伊国滞在中に熊襲の謀叛があり、角鹿にいた神功皇后を出発させたとある。神功皇后は、三韓征伐の帰途に太子(応神天皇)を産み、太子がヤマトへ戻る際に忍熊皇子の謀叛があったが平定した。その後、太子(応神天皇)は武内宿禰に連れられて禊のため気比神に参詣したという。  気比明神は、丹生都比売、狩場、厳島とともに高野山の四明神の一つでもあり、空海は、 気比神宮と厳島神社の存続に何かあれば、 空高野山を投げ打ってでも、 この二社の存続に努めなければならないと遺言を残した。

稗田野神社の鎮守の森。

稗田野神社の鎮守の森。

亀岡市の佐伯郷にある稗田野神社の鎮守の森。古事記の作者の一人稗田阿礼の出生地とされる。約3000年程前にこの地に住み着いた祖先の人達が現在の社殿の裏にあるこの土盛りの処で、食物の神、野山の神を祭り、原生林を切り拓き田畑を造り、収穫した穀物を供え作物の豊作と子孫の繁栄を祈り捧げていたそうだ。

出雲大神宮の磐座

出雲大神宮の磐座

出雲大神宮の本殿の背後にある巨大な磐座。 4世紀から7世紀にかけて亀岡盆地には数多くの古墳がつくられ、その数は、約700。古墳時代後期、最大級の前方後円墳もあり、大和政権との深い関わりがうかがえる。 出雲大神宮 御蔭の滝 祭祀:竜神乃神。この滝の後ろから神域。 古代の亀岡は湿地帯で、秦氏によって開拓された。当時、亀岡は丹波国桑田郡と称したが、「桑田」の名は、秦氏がもたらした養蚕と関係があり、亀岡市内には秦氏ゆかりの松尾系神社が多く存在する。

亀岡 音羽の渓谷

亀岡 音羽の渓谷

亀岡盆地は、水・霧が溜まりやすい地形で、古くは湖であった。盆地内には、千歳車塚など大小多くの古墳が残るが、それらは概ね標高100-200mの高台に位置している。盆地内に残る伝承によると、湖は赤土の泥湖で、「丹の湖・丹の海」と呼ばれ、「丹波」という名は、湖に丹色(朱色)の波が立った様子を表したとする説もある。

丹後 皇大神宮

丹後 皇大神宮

小浜湾

小浜湾

若狭湾とその内湾である小浜湾に面する古くから天然の良港で、律令時代以前からヤマト王権の日本海側の入り口として重要視され、栄えた。  また、日本海にのぞみ、豊かな自然に恵まれた若狭は、古代、伊勢志摩や淡路と並んで、海産物や塩など豊富な食材を都に送り、朝廷の食を支えた「御食国」(みけつくに)のひとつであり、御食国の時代以降も「若狭の美物(うましもの)」を都に運び、京の食文化を支えてきた。  「鯖街道」と呼ばれる若狭と京都をつなぐ街道群は、食材だけでなく、様々な物資や人、文化を運ぶ交流の道でもあった。  人々の往来によりもたらされた祭礼、芸能、仏教文化は、街道沿いから農漁村にまで広く伝播している。  小浜にある若狭神宮寺は、東大寺二月堂への「お水送り」が行われる寺である。  この神宮寺と、本州最南端の潮岬を結ぶラインは、南北の垂直ラインであり、そのライン上に、平安京、平城京、大和、熊野など歴史的に重要な場所が存在している。

若狭 鵜の瀬 白石神社

若狭 鵜の瀬 白石神社

福井県小浜市に流れる遠敷川(おにゅうがわ)の中流に位置する鵜瀬は、奈良東大寺二月堂への「お水送り」の送水神事が行われる所。また、若狭彦神(彦火火出見尊)と若狭姫神(豊玉姫)が唐人(新羅?)の姿で降臨した白石の地が、この場所とされる。

出石 奥矢根鉱山付近

出石 奥矢根鉱山付近

兵庫県但馬、出石地方で出会ったイースター島のモアイ像のような磐座。この周辺は、鉱山資源の豊富なところだが、出石神社は、土地の開拓者として、天日槍命(あめのひぼこのみこと)という渡来系の神(新羅の皇子)を祀っている。天日槍命は、神功皇后の母親の祖先。

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