 日室岳遥拝所(元伊勢 皇大神社)鬼伝説の大江山の日室岳の遥拝所。夏至の日、この山頂に太陽が沈む |  綾部 私市山古墳由良川のほとり、京都府で最大の円墳。円墳じたいは直径70mの大きさだが、小山の頂上に建造されており、小山それ自体が古墳のようである。さらに、この古墳から360度のパノラマ風景が素晴らしい。
頂上には、2人の王の墓がある。2人の王は、正確に東西の方向を向いて横たわっており、武具や農工具、鏡、玉類等の副葬品が膨大に出土しており、38本の矢が収められた胡籙(やなぐい)も出土している。 |  亀岡の籔田神社祭神が月読神。亀岡には月読神を祀っている神社がとても多い。そして、美味しい食べ物を作ったのに、作り方が汚いという理由で月読神に殺されてバラバラにされる保食神を祀る聖域もとても多い。この二つの神と関係する勢力の攻防の舞台だった可能性がある。 |  玉依神社亀岡と高槻・茨木のあいだの山間部に鎮座する玉依神社。神武天皇の皇后、媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)の母を祀る。 |  作山古墳。日本海で3番目に大きな蛭子山古墳に隣接。同時代の4世紀中旬の建造。 |  伊也神社(京都府綾部)由良川と上林川が合流する場所に鎮座する。京都府綾部市は、古代の何鹿郡(いかるがぐん)であるが、12の式内社がある。これは全国的に見ても、多い。この伊也神社もその一つ。磐座が御神体で、第10代崇神天皇の時の丹波や丹後の地の鬼退治と関係のある四道将軍の1人、丹波道主命と関わりが深い。
この神社の祭神は、月読神と素戔嗚神と、大日靈賣尊(オオヒルメノミコト)だ。大日靈賣尊というのは、アマテラスの幼名で、天の岩戸に隠れる前の名前である。 |  亀岡の宮川神社。神武天皇の皇后、媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)の母親の玉依比売の母親の 伊可古夜比売命(いかこやひめのみこと)を祀る。 |  由良川日本海と畿内中央部をつなぐ大動脈。 |  久見浜湾右側がかぶと山(神山)。神谷磐座にいると、夏至の日、ここから太陽が昇る。 |  天岩戸神社(元伊勢 皇大神社)皇大神社の傍を流れる五十鈴川に鎮座する。 |  神谷太刀宮神社(久美浜) |  神谷太刀宮神社(久美浜)第10代崇神天皇によって丹波・丹後に派遣された四道将軍の一人、丹波道主命を祀る。丹波道主命が身につけていたという宝剣【国見の剣】を祀っているため【太刀宮】と呼ばれる。この地には巨大な盤座があり、太陽や星の位置との関わりが指摘されている。この岩の裂け目は真北を指し、夏至の日、かぶと山から昇る朝日が、この磐座の中心を照らす。古代太陽祭祀の跡と考えられている。 |  真名井神社籠神社の奥宮、真名井神社。伊勢神宮の外宮に祀られている豊受大神は、内宮のアマテラスの食事係とされているが、そうした位置付けに反発して、もともとは伊勢神宮全体の神主だったのに内宮が中臣氏系の荒木田氏が神主となった後は外宮の神主に限定された度会氏は、伊勢神道なるものを創造し、豊受大神はアマテラスが生まれる以前に存在した宇宙創造神で、天御中主と同じだという主張を展開した。
京丹後は、この豊受大神のルーツであり、その候補の一つが籠神社の奥宮、真名井神社。
ここでの豊受大神は、天地創造の最高神として崇められる。 |  雲部車塚古墳丹波道主命の陵として、宮内庁に管理されている。もし、丹波道主命ということなら、景行天皇の祖父、ヤマトタケルの曾祖父となり、皇室にとって重要。きれいな前方後円墳で、兵庫県で二番目の大きさの140m。 |  若狭神宮寺 |  南丹市園部の魔気神社珍しく本殿は北を向いている。この神社は、遠くからでも目立つ三角形の頂上を持つ胎金寺山の頂上にあったともされるが、今はその麓にある。式内社(名神大社)で、1100年前の段階で特に重要とされていた神社なのだが、杮葺の上に茅葺がかかり、独特の風情があり、一間社の社殿としては京都府下においても最大規模。
祭神は、大御饌津彦命 (おおみけつひこのみこと)。この神は、大宜都比売神(オオゲツヒメ)や、保食神や豊受神など食物を司る神の総称。
せっかく美味しい料理を作っているのに、作り方が汚いというただそれだけの理由で、貴神とされる月読神(日本書紀)や、スサノオ(古事記)に殺されて身体をバラバラにされてしまった神。アマテラスは、その行為を非難して、月読神と不仲になる。
この亀岡周辺には、月読神を祀る神社も多い。 |  出石神社祭神は、謎の多い渡来人の神、天日槍。神功皇后の祖先にあたる。 |  比沼麻奈為神社(ひぬまないじんじゃ)伊勢神宮の外宮に祀られている豊受大神は、内宮のアマテラスの食事係とされているが、そうした位置付けに反発して、もともとは伊勢神宮全体の神主だったのに内宮が中臣氏系の荒木田氏が神主となった後は外宮の神主に限定された度会氏は、伊勢神道なるものを創造し、豊受大神はアマテラスが生まれる以前に存在した宇宙創造神で、天御中主と同じだという主張を展開した。
京丹後は、この豊受大神のルーツであり、その候補の一つが、この比沼麻奈為神社。
比沼麻奈為神社の方は、籠神社の奥宮の真名井神社と違って、豊受大神は伊勢に移られたので、分霊をひっそりと祀っており、慎ましくて控えめで、清潔感が漂う。
そして、こちらは、羽衣伝説にもとずく聖所であり、天女が豊受大神なのである。 |  籠神社の前の海から見る天橋立 |  亀岡の御霊神社。祭神は吉備津彦命。この神社の目の前から、つい最近、巨大な古代都市、古代寺院遺跡が発見され、現在も調査中だ。 |  片波川の巨大伏条台杉群京都は、世界でも類を見ないほど長い期間、日本の都だったが、度重なる戦乱や震災などがあっても復元できる材木資源の供給源と、それらを運ぶ河川に恵まれていた。木材の搬出は筏(いかだ)流しが主流だった。
京都市の北部、桂川の上流の京北には朝廷と縁の深い常照皇寺があるが、その北部の片波川源流域の巨大伏条台杉群は、平安時代に禁裏御料に指定された杣(そま)で、現在でも、樹齢1000年という巨大な伏状台杉が多数存在する。かつては、平安京の造営や新築用材の重要な供給地だった。 |  丹後 皇大神宮丹後 皇大神宮
京都府福知山市の皇大神社。天照大神は、古くは宮中に祀られていた。この神の祟りを畏れ、第10代崇神天皇の時から鎮座地を求めて各地を転々とし、最終的に、倭姫命(ヤマトヒメノミコト)によって伊勢に落ち着くが、それまでの間に訪れた一時遷座地は、各地で元伊勢として語り継がれた。ここは、そうした元伊勢伝承地の1つ。 |  敦賀 気比神宮敦賀は、朝鮮半島や中国東北部から畿内への玄関口にもあたる。
『古事記』『日本書紀』では、第14代仲哀天皇が角鹿(敦賀)に「笥飯宮」を営み、天皇の紀伊国滞在中に熊襲の謀叛があり、角鹿にいた神功皇后を出発させたとある。神功皇后は、三韓征伐の帰途に太子(応神天皇)を産み、太子がヤマトへ戻る際に忍熊皇子の謀叛があったが平定した。その後、太子(応神天皇)は武内宿禰に連れられて禊のため気比神に参詣したという。
気比明神は、丹生都比売、狩場、厳島とともに高野山の四明神の一つでもあり、空海は、 気比神宮と厳島神社の存続に何かあれば、 空高野山を投げ打ってでも、 この二社の存続に努めなければならないと遺言を残した。 |  片波川源流域伏条台杉群 |  稗田野神社の鎮守の森。亀岡市の佐伯郷にある稗田野神社の鎮守の森。古事記の作者の一人稗田阿礼の出生地とされる。約3000年程前にこの地に住み着いた祖先の人達が現在の社殿の裏にあるこの土盛りの処で、食物の神、野山の神を祭り、原生林を切り拓き田畑を造り、収穫した穀物を供え作物の豊作と子孫の繁栄を祈り捧げていたそうだ。 |  出雲大神宮の磐座出雲大神宮の本殿の背後にある巨大な磐座。 4世紀から7世紀にかけて亀岡盆地には数多くの古墳がつくられ、その数は、約700。古墳時代後期、最大級の前方後円墳もあり、大和政権との深い関わりがうかがえる。
出雲大神宮 御蔭の滝 祭祀:竜神乃神。この滝の後ろから神域。
古代の亀岡は湿地帯で、秦氏によって開拓された。当時、亀岡は丹波国桑田郡と称したが、「桑田」の名は、秦氏がもたらした養蚕と関係があり、亀岡市内には秦氏ゆかりの松尾系神社が多く存在する。 |  亀岡 音羽の渓谷亀岡盆地は、水・霧が溜まりやすい地形で、古くは湖であった。盆地内には、千歳車塚など大小多くの古墳が残るが、それらは概ね標高100-200mの高台に位置している。盆地内に残る伝承によると、湖は赤土の泥湖で、「丹の湖・丹の海」と呼ばれ、「丹波」という名は、湖に丹色(朱色)の波が立った様子を表したとする説もある。 |  丹後 皇大神宮 |  出雲大神宮 御蔭の滝祭祀:竜神乃神。
出雲大神宮 御蔭の滝 祭祀:竜神乃神。この滝の後ろから神域。
古代の亀岡は湿地帯で、秦氏によって開拓された。当時、亀岡は丹波国桑田郡と称したが、「桑田」の名は、秦氏がもたらした養蚕と関係があり、亀岡市内には秦氏ゆかりの松尾系神社が多く存在する。 |  出雲大神宮の奥宮。ここは、国常立尊(くにとこたちのみこと)を祀る場所で、磐座群が、出雲大神宮の神体山にあたる御影山の中腹にある。この磐座群は禁足地になっており、今も幽暗な気配を漂わせている。 |  若狭姫神社若狭の一宮。721年創建。祭神は豊玉姫。この千年杉以外に、境内に多くの巨木が生い茂っている。 |  小浜湾若狭湾とその内湾である小浜湾に面する古くから天然の良港で、律令時代以前からヤマト王権の日本海側の入り口として重要視され、栄えた。
また、日本海にのぞみ、豊かな自然に恵まれた若狭は、古代、伊勢志摩や淡路と並んで、海産物や塩など豊富な食材を都に送り、朝廷の食を支えた「御食国」(みけつくに)のひとつであり、御食国の時代以降も「若狭の美物(うましもの)」を都に運び、京の食文化を支えてきた。
「鯖街道」と呼ばれる若狭と京都をつなぐ街道群は、食材だけでなく、様々な物資や人、文化を運ぶ交流の道でもあった。
人々の往来によりもたらされた祭礼、芸能、仏教文化は、街道沿いから農漁村にまで広く伝播している。
小浜にある若狭神宮寺は、東大寺二月堂への「お水送り」が行われる寺である。
この神宮寺と、本州最南端の潮岬を結ぶラインは、南北の垂直ラインであり、そのライン上に、平安京、平城京、大和、熊野など歴史的に重要な場所が存在している。 |  若狭 鵜の瀬 白石神社福井県小浜市に流れる遠敷川(おにゅうがわ)の中流に位置する鵜瀬は、奈良東大寺二月堂への「お水送り」の送水神事が行われる所。また、若狭彦神(彦火火出見尊)と若狭姫神(豊玉姫)が唐人(新羅?)の姿で降臨した白石の地が、この場所とされる。 |  出石 奥矢根鉱山付近兵庫県但馬、出石地方で出会ったイースター島のモアイ像のような磐座。この周辺は、鉱山資源の豊富なところだが、出石神社は、土地の開拓者として、天日槍命(あめのひぼこのみこと)という渡来系の神(新羅の皇子)を祀っている。天日槍命は、神功皇后の母親の祖先。 |
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