Sacred world,  Our great spirit from ancient time

Tanba,TangoWakasa

久見浜湾
日室岳遥拝所
天岩戸神社
出石神社
神谷神社-5
Nishihonganji-58
比沼真名井神社-7
比沼真名井神社-9
比沼真名井神社-11
比沼真名井神社-10
比沼真名井神社-8
Nishihonganji-44
Nishihonganji-45
Nishihonganji-59
スクリーンショット 2019-11-21 22.21.24
Nishihonganji-47
Nishihonganji-46
スクリーンショット 2019-11-21 22.17.56
千本杉
五霊神社
東山古墳郡
東山古墳群
Nishihonganji-12
Keihoku-7
Keihoku-11
スクリーンショット 2019-11-23 0.08.22
スクリーンショット 2019-11-21 22.24.17
Keihoku-12
Keihoku-10
アルタクラッセ-3
Nishihonganji-67
Nishihonganji-7
Nishihonganji-6
Nishihonganji-50
Nishihonganji-3
Nishihonganji-4
Nishihonganji-79
Nishihonganji-77

 古代の船は風と潮の流れに頼るしかなかった。その為、朝鮮半島の南西部、百済あたりから船に乗ると九州に上陸し、南東部、新羅あたりから船に乗ると若狭湾に上陸したと考えられている。

  瀬戸内海は、小島が多いために潮の流れが複雑で、航海は易しくはなかった。そのため、大陸から畿内へと至るために、日本海側から兵庫県や福井県の河川を利用する道が重要で、海人と呼ばれる人々が活躍した。彼らが開いた道は、住吉神など海上交通と関わりの深い神が要所に祀られていることで想像できる

 また、現在、但馬、丹後、丹波と呼ばれる地域は、かつては丹波王国だったが、この地域には、重要な鉱山が多く、さらに都の建設や造船に欠かせない森林資源も豊富だった。それらは、大陸からの交易物とともに、河川を通じて、ヤマトや京都へと運ばれていった。

i日本海からヤマトへの道

写真の上をクリックすれば、拡大されます。ます

日室岳遥拝所(元伊勢 皇大神社)

日室岳遥拝所(元伊勢 皇大神社)

鬼伝説の大江山の日室岳の遥拝所。夏至の日、この山頂に太陽が沈む

久見浜湾

久見浜湾

右側がかぶと山(神山)。神谷磐座にいると、夏至の日、ここから太陽が昇る。

天岩戸神社(元伊勢 皇大神社)

天岩戸神社(元伊勢 皇大神社)

皇大神社の傍を流れる五十鈴川に鎮座する。

神谷太刀宮神社(久美浜)

神谷太刀宮神社(久美浜)

神谷太刀宮神社(久美浜)

神谷太刀宮神社(久美浜)

第10代崇神天皇によって丹波・丹後に派遣された四道将軍の一人、丹波道主命を祀る。丹波道主命が身につけていたという宝剣【国見の剣】を祀っているため【太刀宮】と呼ばれる。この地には巨大な盤座があり、太陽や星の位置との関わりが指摘されている。この岩の裂け目は真北を指し、夏至の日、かぶと山から昇る朝日が、この磐座の中心を照らす。古代太陽祭祀の跡と考えられている。

出石神社

出石神社

祭神は、謎の多い渡来人の神、天日槍。神功皇后の祖先にあたる。

間人(たいざ)の立岩。

間人(たいざ)の立岩。

日本海で2番目に大きな神明山古墳(全長190m)の近くの立石。高さ20メートルにも及ぶ日本でも最大級の巨大な一枚岩の柱状の玄武岩である。 聖徳太子の異母弟の麻呂子親王によって追い詰められた鬼が、ここに閉じ込められたとされる。  この岩のそばに、日本海を見つめる母子像が設置されている。聖徳太子の母親、穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)と、聖徳太子だ。  物部氏と蘇我氏が争っている時、聖徳太子の母親は、この地に身を寄せていたが、宮に戻る時、自分の名前、”間人”をこの地に贈ったとされる。しかし、そのままその名前を呼ぶのは畏れ多いからと、地元の人は、間人と書いて、”たいざ”と呼ぶ。

作山古墳。

作山古墳。

日本海で3番目に大きな蛭子山古墳に隣接。同時代の4世紀中旬の建造。

比沼麻奈為神社(ひぬまないじんじゃ)

比沼麻奈為神社(ひぬまないじんじゃ)

伊勢神宮の外宮に祀られている豊受大神は、内宮のアマテラスの食事係とされているが、そうした位置付けに反発して、もともとは伊勢神宮全体の神主だったのに内宮が中臣氏系の荒木田氏が神主となった後は外宮の神主に限定された度会氏は、伊勢神道なるものを創造し、豊受大神はアマテラスが生まれる以前に存在した宇宙創造神で、天御中主と同じだという主張を展開した。  京丹後は、この豊受大神のルーツであり、その候補の一つが、この比沼麻奈為神社。  比沼麻奈為神社の方は、籠神社の奥宮の真名井神社と違って、豊受大神は伊勢に移られたので、分霊をひっそりと祀っており、慎ましくて控えめで、清潔感が漂う。  そして、こちらは、羽衣伝説にもとずく聖所であり、天女が豊受大神なのである。

真名井神社

真名井神社

籠神社の奥宮、真名井神社。伊勢神宮の外宮に祀られている豊受大神は、内宮のアマテラスの食事係とされているが、そうした位置付けに反発して、もともとは伊勢神宮全体の神主だったのに内宮が中臣氏系の荒木田氏が神主となった後は外宮の神主に限定された度会氏は、伊勢神道なるものを創造し、豊受大神はアマテラスが生まれる以前に存在した宇宙創造神で、天御中主と同じだという主張を展開した。  京丹後は、この豊受大神のルーツであり、その候補の一つが籠神社の奥宮、真名井神社。  ここでの豊受大神は、天地創造の最高神として崇められる。

籠神社の前の海から見る天橋立

籠神社の前の海から見る天橋立

亀岡の御霊神社。

亀岡の御霊神社。

祭神は吉備津彦命。この神社の目の前から、つい最近、巨大な古代都市、古代寺院遺跡が発見され、現在も調査中だ。

片波川の巨大伏条台杉群

片波川の巨大伏条台杉群

京都は、世界でも類を見ないほど長い期間、日本の都だったが、度重なる戦乱や震災などがあっても復元できる材木資源の供給源と、それらを運ぶ河川に恵まれていた。木材の搬出は筏(いかだ)流しが主流だった。 京都市の北部、桂川の上流の京北には朝廷と縁の深い常照皇寺があるが、その北部の片波川源流域の巨大伏条台杉群は、平安時代に禁裏御料に指定された杣(そま)で、現在でも、樹齢1000年という巨大な伏状台杉が多数存在する。かつては、平安京の造営や新築用材の重要な供給地だった。

兵庫県多可郡千ケ峰 千本杉

兵庫県多可郡千ケ峰 千本杉

千ケ峰 岩座神(いさりがみ)五霊神社

千ケ峰 岩座神(いさりがみ)五霊神社

兵庫県多加郡、千ケ峰の麓、岩座神にある五霊神社。境内にある3本のホソバタブは、ホソバタブとしては、県内で第1位、2位、3位の大きさ。

丹後 皇大神宮

丹後 皇大神宮

丹後 皇大神宮 京都府福知山市の皇大神社。天照大神は、古くは宮中に祀られていた。この神の祟りを畏れ、第10代崇神天皇の時から鎮座地を求めて各地を転々とし、最終的に、倭姫命(ヤマトヒメノミコト)によって伊勢に落ち着くが、それまでの間に訪れた一時遷座地は、各地で元伊勢として語り継がれた。ここは、そうした元伊勢伝承地の1つ。

敦賀 気比神宮

敦賀 気比神宮

敦賀は、朝鮮半島や中国東北部から畿内への玄関口にもあたる。 『古事記』『日本書紀』では、第14代仲哀天皇が角鹿(敦賀)に「笥飯宮」を営み、天皇の紀伊国滞在中に熊襲の謀叛があり、角鹿にいた神功皇后を出発させたとある。神功皇后は、三韓征伐の帰途に太子(応神天皇)を産み、太子がヤマトへ戻る際に忍熊皇子の謀叛があったが平定した。その後、太子(応神天皇)は武内宿禰に連れられて禊のため気比神に参詣したという。  気比明神は、丹生都比売、狩場、厳島とともに高野山の四明神の一つでもあり、空海は、 気比神宮と厳島神社の存続に何かあれば、 空高野山を投げ打ってでも、 この二社の存続に努めなければならないと遺言を残した。

東山古墳群

東山古墳群

兵庫県多加 東山古墳群 この近くに、荒田神社、大歳金刀比羅神社など、天目一神を祀る神社がある。また、古墳も、前期、中期、後期があり、さらに、弥生、縄文時代の遺跡も発見されている。

稗田野神社の鎮守の森。

稗田野神社の鎮守の森。

亀岡市の佐伯郷にある稗田野神社の鎮守の森。古事記の作者の一人稗田阿礼の出生地とされる。約3000年程前にこの地に住み着いた祖先の人達が現在の社殿の裏にあるこの土盛りの処で、食物の神、野山の神を祭り、原生林を切り拓き田畑を造り、収穫した穀物を供え作物の豊作と子孫の繁栄を祈り捧げていたそうだ。

青玉神社

青玉神社

兵庫県多加郡千ケ峰近く、杉原川上流、青玉神社。天目一神を祀る。

東山古墳群

東山古墳群

出雲大神宮の磐座

出雲大神宮の磐座

出雲大神宮の本殿の背後にある巨大な磐座。 4世紀から7世紀にかけて亀岡盆地には数多くの古墳がつくられ、その数は、約700。古墳時代後期、最大級の前方後円墳もあり、大和政権との深い関わりがうかがえる。 出雲大神宮 御蔭の滝 祭祀:竜神乃神。この滝の後ろから神域。 古代の亀岡は湿地帯で、秦氏によって開拓された。当時、亀岡は丹波国桑田郡と称したが、「桑田」の名は、秦氏がもたらした養蚕と関係があり、亀岡市内には秦氏ゆかりの松尾系神社が多く存在する。

出雲大神宮の奥宮。

出雲大神宮の奥宮。

ここは、国常立尊(くにとこたちのみこと)を祀る場所で、磐座群が、出雲大神宮の神体山にあたる御影山の中腹にある。この磐座群は禁足地になっており、今も幽暗な気配を漂わせている。

亀岡 音羽の渓谷

亀岡 音羽の渓谷

亀岡盆地は、水・霧が溜まりやすい地形で、古くは湖であった。盆地内には、千歳車塚など大小多くの古墳が残るが、それらは概ね標高100-200mの高台に位置している。盆地内に残る伝承によると、湖は赤土の泥湖で、「丹の湖・丹の海」と呼ばれ、「丹波」という名は、湖に丹色(朱色)の波が立った様子を表したとする説もある。

丹後 皇大神宮

丹後 皇大神宮

出雲大神宮 御蔭の滝

出雲大神宮 御蔭の滝

祭祀:竜神乃神。 出雲大神宮 御蔭の滝 祭祀:竜神乃神。この滝の後ろから神域。 古代の亀岡は湿地帯で、秦氏によって開拓された。当時、亀岡は丹波国桑田郡と称したが、「桑田」の名は、秦氏がもたらした養蚕と関係があり、亀岡市内には秦氏ゆかりの松尾系神社が多く存在する。

亀岡の御霊神社。

亀岡の御霊神社。

小浜湾

小浜湾

若狭湾とその内湾である小浜湾に面する古くから天然の良港で、律令時代以前からヤマト王権の日本海側の入り口として重要視され、栄えた。  また、日本海にのぞみ、豊かな自然に恵まれた若狭は、古代、伊勢志摩や淡路と並んで、海産物や塩など豊富な食材を都に送り、朝廷の食を支えた「御食国」(みけつくに)のひとつであり、御食国の時代以降も「若狭の美物(うましもの)」を都に運び、京の食文化を支えてきた。  「鯖街道」と呼ばれる若狭と京都をつなぐ街道群は、食材だけでなく、様々な物資や人、文化を運ぶ交流の道でもあった。  人々の往来によりもたらされた祭礼、芸能、仏教文化は、街道沿いから農漁村にまで広く伝播している。  小浜にある若狭神宮寺は、東大寺二月堂への「お水送り」が行われる寺である。  この神宮寺と、本州最南端の潮岬を結ぶラインは、南北の垂直ラインであり、そのライン上に、平安京、平城京、大和、熊野など歴史的に重要な場所が存在している。

若狭 鵜の瀬 白石神社

若狭 鵜の瀬 白石神社

福井県小浜市に流れる遠敷川(おにゅうがわ)の中流に位置する鵜瀬は、奈良東大寺二月堂への「お水送り」の送水神事が行われる所。また、若狭彦神(彦火火出見尊)と若狭姫神(豊玉姫)が唐人(新羅?)の姿で降臨した白石の地が、この場所とされる。

若狭姫神社

若狭姫神社

若狭の一宮。721年創建。祭神は豊玉姫。この千年杉以外に、境内に多くの巨木が生い茂っている。

若狭神宮寺

若狭神宮寺

若狭神宮寺

若狭神宮寺

「お水取り」として知られている東大寺の修二会は、752年、東大寺を開山した良弁僧正(ろうべんそうじょう)の高弟、実忠和尚(じっちゅうかしょう)によって創始された。以来、2018年には1267回を数える。修二会の正式名称は「十一面悔過(じゅういちめんけか)」。十一面悔過とは、われわれが日常に犯しているさまざまな過ちを、二月堂の本尊である十一面観世音菩薩の宝前で、懺悔(さんげ)することを意味する。 修二会が創始された古代では、それは国家や万民のためになされる宗教行事を意味した。天災や疫病や反乱は国家の病気と考えられ、そうした病気を取り除いて、鎮護国家、天下泰安、風雨順時、五穀豊穣、万民快楽など、人々の幸福を願う行事とされた。 その東大寺のお水取りに先がけて行われるのが、若狭のお水送りだ。 若狭神宮寺で汲まれた「お香水」は、松明行列とともに遠敷(おにゅう)川沿いに約2キロ上流の「鵜の瀬」まで運ばれ、「鵜の瀬」で大護摩供が行われた後、住職が送水文を読み上げ、「お香水」は筒から遠敷川に注ぎ込まれる。「お香水」は10日間かけて、奈良東大寺二月堂の「若狭井」に届くと言われ

出石 奥矢根鉱山付近

出石 奥矢根鉱山付近

兵庫県但馬、出石地方で出会ったイースター島のモアイ像のような磐座。この周辺は、鉱山資源の豊富なところだが、出石神社は、土地の開拓者として、天日槍命(あめのひぼこのみこと)という渡来系の神(新羅の皇子)を祀っている。天日槍命は、神功皇后の母親の祖先。

片波川源流域伏条台杉群

片波川源流域伏条台杉群

片波川源流域伏条台杉群

片波川源流域伏条台杉群

This site was designed with the
.com
website builder. Create your website today.
Start Now