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古代の船は風と潮の流れに頼るしかなかった。その為、朝鮮半島の南西部、百済あたりから船に乗ると九州に上陸し、南東部、新羅あたりから船に乗ると若狭湾に上陸したと考えられている。
瀬戸内海は、小島が多いために潮の流れが複雑で、航海は易しくはなかった。そのため、大陸から畿内へと至るために、日本海側から兵庫県や福井県の河川を利用する道が重要で、海人と呼ばれる人々が活躍した。彼らが開いた道は、住吉神など海上交通と関わりの深い神が要所に祀られていることで想像できる
また、現在、但馬、丹後、丹波と呼ばれる地域は、かつては丹波王国だったが、この地域には、重要な鉱山が多く、さらに都の建設や造船に欠かせない森林資源も豊富だった。それらは、大陸からの交易物とともに、河川を通じて、ヤマトや京都へと運ばれていった。
i日本海からヤマトへの道
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![]() 間人(たいざ)の立岩。日本海で2番目に大きな神明山古墳(全長190m)の近くの立石。高さ20メートルにも及ぶ日本でも最大級の巨大な一枚岩の柱状の玄武岩である。 聖徳太子の異母弟の麻呂子親王によって追い詰められた鬼が、ここに閉じ込められたとされる。 この岩のそばに、日本海を見つめる母子像が設置されている。聖徳太子の母親、穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)と、聖徳太子だ。 物部氏と蘇我氏が争っている時、聖徳太子の母親は、この地に身を寄せていたが、宮に戻る時、自分の名前、”間人”をこの地に贈ったとされる。しかし、そのままその名前を呼ぶのは畏れ多いからと、地元の人は、間人と書いて、”たいざ”と呼ぶ。 | ![]() 阿古谷神社(兵庫県豊岡市竹野町)。竹野川を海岸から2.5m遡ったところの見蔵岡遺跡は、縄文中期から後期のものを主体とする石器が669点も出土し、さらに西日本で初めて、縄文の祭祀道具「石棒」の製造跡が発見された。見蔵岡遺跡から竹野川を1.5kmほど遡った高台に阿古谷神社が鎮座し、祭神は土師氏の祖神とされる。 | ![]() 兵庫県豊岡の玄武洞。1929年、松山基範によって、ここの玄武岩の持つ磁気が現在の地磁気と反対の向きを指していることを発見し、かつて地球の磁場が反転したとする説を発表した。この説は広く認められるようになり、現在では260万年前から78万年前までは現在と反対向きであったことが認められている。 | ![]() 大宮賣神社(京都府京丹後市)。祭神の大宮売神は、『古語拾遺』等によるとアメノウズメ神と同神とされている。境内一帯から、弥生時代前期以降の数多くの遺物が出土した。古墳時代の祭祀遺物も多数発見されており、弥生時代から長期間にわたる聖域であることを、考古学的に示している。 | ![]() 淀の洞門(兵庫県豊岡市竹野町)。豊岡 は西日本の火山帯の東端にあたる。近畿でもっとも新しい火山噴火である神鍋火山の噴火は2万5千年前で、山頂には今でも噴火口が残っている。豊岡市における火山性の大地は、円山川流域は玄武洞に代表される玄武岩、その西の竹野川流域は、淀の洞門に代表される流紋岩となっている。 | ![]() 篠村八幡宮(京都府亀岡市)。足利尊氏が倒幕のために挙兵をした場所。その時、武将たちとともに矢を埋納した矢塚が境内に残る。また、足利尊氏は、後醍醐天皇と決別し、京都攻防戦で敗れた後、この場所で敗残の味方の兵を集めるとともに社領を寄進して再起祈願を行なった。 |
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![]() 亀岡の保津川渓谷の入り口。 |































