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日本人の心のふるさと
万世一系が真実かどうかはともかく、日本の天皇制は1400年以上もの歴史があり、これだけ長きにわたって、一国の権威的な存在であり続ける皇室は他にない。その天皇制のルーツは大和にある。
天皇制は、日本人の心の深いところに根ざしている崇敬の対象ゆえに、国家神道の暴力に利用された苦い歴史もあり、今後もその可能性に注意を払わねばならないが、どれだけ近代合理主義が進もうとも、天皇制は、多くの人々に支持され続けている。その理由は、明確にはわからないが、無宗教と言われ精神的拠り所を喪失した現代日本人にとって、心のふるさというべきものを、そこに感じるからだろう。
絶対的に正しいと言えるものは何1つないが、長く続いてきているものには何かしらの真実がある。
天皇は、国民の平和と安寧のために、日々、心をこめて宮中祭祀を行っている。
日本人が、心のふるさとを感じるものは、目には見えないけれど、何かがいつもそばで見守ってくれている。そう感じさせてくれる有難い存在なのだろう。
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![]() 益田岩船(奈良県橿原市)。古くから謎とされていた巨大な岩の建造物で、上部に方形の二つの穴が開けられている。近年、ここから南東500mのところにある牽牛子塚古墳の発掘調査で、これと同じ構造を持つ石棺式石室が発見されたため、この建造物は、牽牛子塚古墳用の石棺を作ろうとして作業が放棄されたものではないかと推測されている。 | ![]() 牽牛子塚古墳(奈良県明日香村)。考古学的調査では、第37代斉明天皇と、彼女の娘の間人皇女(第36代孝徳天皇の皇后)の合葬陵とされる。かつての姿を蘇らせるために、2018年1月から工事が行われていたが、2022年3月6日から一般公開された。この古墳は全国に14基ほどしか発見されていない八角形の古墳である。 | ![]() 岩屋山古墳(奈良県明日香村)。被葬者は不明。下段部は方形であるが、上段部を八角形に築いた八角墳ではないかとされている。石室は、巨大で硬い花崗岩を用いており、精巧な切石加工がほどこされている。奈良にある6基の八角墳のうち5基は、天武天皇と、その血縁者のものであり、この岩屋山古墳も、その可能性が高い。 | ![]() 宝山寺(奈良県生駒市)。伝承によれば、斉明天皇の655年、役行者が開いたとされる修験道場で、空海も修行したと伝わる。背後に聳える火成岩の岩壁にある般若窟は、生駒山地周辺の住民を困らせていた前鬼・後鬼を役小角が捕らえて、閉じ込めて改心させた場所だという。 | ![]() 船山神社(奈良県平群町)。式内社。本殿背後の山の中には丸木舟状の巨岩があり、神が乗ってきた船だと信仰された。その磐座を祭祀したのが起源で、「船山」の社名も、そこからきていると考えられる。生駒山地の東麓の平群町は、行基ゆかりの聖域が多いが、海人の紀氏の痕跡も多く残る。 | ![]() 三里古墳(奈良県平群町)。石棚付き石室を持つ古墳で、瀬戸内海周辺など海人の活動地域に集中的に見られる。この近くに、紀氏の祖神を祀る平群坐紀氏神社が鎮座する。 |
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![]() 金勝寺(奈良県平群町)。行基が夢のお告げによって創建した。すぐ前を流れる竜田川の淵に棲む竜神を祀る信仰があったようで、竜神が開祖の行基を迎えたという伝承がある。 | ![]() 千光寺(奈良県平群町)。生駒山地の中腹にあるこの寺は、660年、役小角が草堂を築いたことに始まる。役小角が、ここでの修行の後、吉野の大嶺山に入ったことから、千光寺を元山上と呼ぶようになったと言われている。役小角の母親も入山修業したとされる。 | ![]() 竹林寺(奈良県生駒市)の行基の墓。行基が壮年期に営んだ小庵が後に寺院となった。民衆の仏教活動が禁じられた奈良時代前半、行基は、階層を問わず広く人々に仏教を説き、困窮者の救済や社会事業を指導し た。聖武天皇は、天然痘の流行で疲弊した社会の再興のため、行基の指導力と影響力の大きさを頼り、彼を、僧侶の最高位の大僧正に任命した。 | ![]() 吉野川の支流、丹生川沿いの賀名生(あのう)の地(奈良県五條市)。南北朝時代、南朝(吉野朝廷)の首都となった場所。かつては穴生と表記した。 | ![]() 芝崎の奇岩(奈良県五條市)。ここは、日本列島を南北に分断する巨大断層、中央構造線の上であり緑色片岩が露出している。硬い岩盤のために侵食されず、吉野川が大きく蛇行している。この真北1.5kmにコノハナサクヤヒメを祭神とする阿陀比売神社が鎮座する。あたり一帯は、南九州出身の海人、隼人の居住地だった。 | ![]() |