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古代の大国で、渡来人が多く行き交った場所。
日本には古墳の数は16万であるが、都道府県別では兵庫県の18841基(平成24年)が第一位である。二位の鳥取や三位の京都が13000前後、ヤマト王権があった奈良でさえ9617なので、兵庫県の古墳数が抜きん出て多いことがわかる。なかでも播磨の地は、古代において伊予の国とともに大国とされた。加古川、市川、揖保川、千種川が、内陸部から瀬戸内海に向かって流れ、肥沃な平野を作る。さらに川の上流は、生野銀山をはじめ有数の鉱山地帯である。また、加古川は、太平洋側と日本海側のあいだの分水嶺が日本で一番低く100mにもならず、北を流れる由良川とつなぐと日本海と瀬戸内海の往来は簡単で、古代から、渡来人が多く移動していた。瀬戸内海は潮の流れが早く複雑で、古代の大陸との交通路は、瀬戸内海よりも、加古川と由良川をつなぐルートであったとする説もある。さらに、播磨は、陰陽師の里であり、安倍晴明と蘆屋道満が最後の戦いを繰り広げたのは、西播磨の大撫山であった。播磨は、豊かな地域であ ったがゆえに、古代、この地をめぐる攻防は激しく、ヤマト王権とは別の勢力がここを拠点としていたのだろう、播磨国風土記などにおいても、記紀の国譲りのような物語が、多く残されている。
舟木石上神社(兵庫県淡路市舟木)舟木の石上神社は、真東に行くと、奈良盆地の東西のランドマークである二上山と三輪山を通り、伊勢斎宮に至る。 | 淡路國一之 宮 伊弉諾神宮(兵庫県淡路市多賀) | 岩樟神社(兵庫県淡路市岩屋)。オノゴロ島の候補地、絵島の近くに鎮座する。イザナミとイザナギが産んだ不具の子とされる蛭子命を祀る。蛭子は、生まれた後に葦舟にのせて流されてしまう神であるが、伝承によるとこの岩屋から蛭児命は流され、えびす宮で有名な西宮神社に辿りつき神体になったと言われている。境内の洞窟は、山の裏側の絵島とつながっていた。 | 伊和津姫神社(兵庫県赤穂市)。社殿は海に向かって鎮座し、周辺の海岸は硬い岩盤に覆われている。もともとは海上の岩礁「八丁岩」にあったが、江戸時代に現在地に遷された。明治時代には東郷平八郎が日露戦争開戦前に勝利祈願のため訪れた。現在も、航海安全や大漁の祈願など、船乗りによって、海上からの参拝が盛んに行われている。 | 稲爪神社(兵庫県明石市)。古代の伊和津姫神社の論社候補の一つ。推古天皇の時代、朝鮮半島より鉄人が8千人を率いて来襲した時に、伊予国の越智益躬が、三嶋大明神(大山祇神)の加護によって、この地で撃退したという伝承が残る。 | 明石海峡明石海峡の向こうの淡路島。明石は住吉神が流れ着いた場所で、源氏物語では光源氏が復活の道を歩み始めた所。また、応神天皇の即位を阻むため、忍熊皇子は、新羅遠征から戻ってくる神功皇后との戦いに備えて明石に砦を築いた。さらに推古天皇の時代、明石で新羅の鉄人を撃退した伝承が残る。地理的に瀬戸際の明石は、歴史的運命の瀬戸際になっている。 |
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絵島淡路島。岩屋の絵島。イザナギとイザナミの国生みで最初に生み出したオノゴロ島の候補地。本居宣長は 『古事記伝』により、オノゴロ島は、この絵島と見立てている。約2000万年前の褐鉄鉱沈殿砂岩層が露出し、岩肌の縞模様が美しい。赤い部分が褐鉄鉱。 | 兵庫県多可郡千ケ峰 千本杉 | 兵庫県姫路市西脇の破磐神社の御神体「割れ岩」。 | 揖保郡太子町 斑鳩寺斑鳩寺の境内に稗田神社のお旅所があり、すぐ近くに稗田神社が鎮座し、この二つの社寺は深い関係があった。太子町は、聖徳太子の一族がやってくる前、稗田神社の祭神、豐受大神=保食神や、ニギハヤヒ(アメノホアカリ)と関係のある勢力が拠点にしていたのではないか。京丹後の籠神社は、古代、アメノホ アカリが豐受大神を祀る場所だったが、太子町の近くの播磨三大社の一つ、粒坐天照神社の祭神もアメノホアカリである。 | 宮山山頂兵庫県宍粟市に鎮座する播磨三大社の伊和神社の本殿は珍しく北を向いているが、その北側に美しい三角形の宮山がそびえ、その頂上付近は、巨大な岩塊が多く存在する。 | 相生の羅漢の里相生の羅漢の里。南北朝時代の始まりの前、後醍醐天皇側と足利尊氏側が戦った時、最初、劣勢だった足利尊氏が九州に逃げ延びて体制と整えている時、それを追討しようとした新田義貞の大軍を、播磨にいた赤松氏が、防ぎきった。新田軍は、多くの兵を失い、足利尊氏を追討するどころか逆に劣勢となり、勢力を挽回した尊氏と赤松軍による攻撃を受け、湊川の戦いで楠木正成軍が壊滅するなど、北軍の勝利となる。大軍の新田義貞軍を、少数の赤松軍が打ち負かした南北朝の天下分けの合戦は、この羅漢の里のある感状山城と、白旗城という赤松氏が築いた山城を舞台に行われた。 |
三田の愛宕山の南山麓 天狗岩稲荷神兵庫県三田市母子の愛宕山の麓の天狗岩稲荷神社。愛宕山は磐座のような岩盤が多く存在する。 | 五色塚古墳兵庫県最大の古墳。奈良の佐紀山古墳群のヒバスヒメ=ヤマトタケルの祖母の古墳と相似形。明石海峡を見下ろすこのポジションも含め、古代史のなかで重要な位置付けにある。神功皇后が三韓遠征から戻ってくる時、忍熊皇子がここに砦を築いて反乱を起こしたという伝承がある。 | 感状山城。峻険な山に築かれた山城。赤松軍がこの場所と白旗城に立てこもって、新田軍を打ち負かした。この山城を攻め落とすことは不可能だと思うくらい切り立 った岩盤の多い山の上の城だが、ここにこもることも簡単ではないと思う。赤松軍は、アフガンゲリラのように、山にたてこもって戦うことが得意だったのだろう。後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒す時も、足利ではなく赤松の貢献が大きかった。にもかかわらず、後醍醐天皇は赤松氏に十分な恩賞を与えなかった。結果的に、赤松氏は、後醍醐天皇を見限って、足利氏と組んで後醍醐天皇打倒の側についた。後醍醐天皇が、由緒正しき血統の新田ではなく、得体のしれない赤松氏をもう少し重んじていたら、歴史は変わっていたあろう。 | 生石神社加古川のそば、石の宝殿と呼ばれる生石神社。ここは、古代、天皇の石棺に用いられた竜山石の産地で、この巨岩をくり抜いてつくられた聖域は、物部守屋によって、この地に作られたとされる。 | 加古川の東岸の鶴林寺播磨のいかるがの地であり、鶴林寺の近くに泊神社が鎮座する。泊神社は、和歌山の紀ノ川下流域の日前・国懸神社の祭神でもある鏡、天の岩戸からアマテラス大神を導き出すために作られたけれど使われなかったという鏡が流れ着いた場所とされる。 | 青玉神社兵庫県多加郡千ケ峰近く、杉原川上流、青玉神社。天目一神を祀る。 |
可美真手命神社兵庫県三木、明石川上流、神出地域の可美真手命(うましまで)神社。古代の物部神社とされ、高さも形もほぼ同じの雄岡山と雌岡山の目の前の丘の上に鎮座する。この丘からは、縄文時代、弥生時代の遺物も発掘されている。 | 志染の石室明石の地にだけ宗賢神社という神社が数多くある。この神社は、第24代仁賢天皇と第23代顯宗天皇を祭神にする特殊な神社だ。 この2人の天皇は 兄弟なのだが、第21代雄略天皇によって父親である市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)=第17代履中天皇の息子を殺されてしまい、一族皆殺しにならないよう、子供の時、三木市の志染の地で、金属技術を持つ渡来系氏族の忍海氏に保護されて身を隠していた。志染地区は、明石川の上流にあたる。 | 五霊神社兵庫県多加郡、千ケ峰の麓、岩座神にある五霊神社。境内にある3本のホソバタブは、ホソバタブとしては、県内で第1位、2位、3位の大きさ。 | 神出 雌岡山 姫石神社子午線のすぐそばに雄岡山と雌岡山という双子の山(高さも形もほぼ同じ)が東西に並んでおり、雌岡山の頂上に神出神社が鎮座するが、そのすぐそばに、古代からの磐座信仰、姫石神社がある。 | 東山古墳郡兵庫県多加 東山古墳群 この近くに、荒田神社、大歳金刀比羅神社など、天目一神を祀る神社がある。また、古墳も、前期、中期、後期があり、さらに、弥生、縄文時代の遺跡も発見されている。 | 小野市 王塚古墳5世紀中旬、小野の中心に建造された王塚古墳。かつては古墳群だった。5世紀中旬は、ヤマト王権が全盛で、畿内を中心に巨大な前方後円墳が作られたが、ここは円墳で、この場所の真北に位置する綾部の私市円山古墳と同じである。 |
佐用都比賣神社『播磨国風土記』讃容(さよ)郡の項に、出雲から来られた伊和大神と妹神(后神)の玉津日女命が当地の領有を競った時、妹神(后神)が生きた鹿の腹をさいて、その血に稲を蒔いて一夜で苗が出たという。 伊和大神は「汝妹は五月夜(さよ)に植えつるかも」と言って去っていった。 よって、五月夜(さよ)の郡、讃容郡と名付けられ、 妹神(后神)を賛用都比賣命と名付けたとある。 | 生島兵庫県赤穂の生島。聖徳太子に仕えた秦河勝が、晩年、流れ着いて神になった場所とされる。この島の中に秦河勝の墓があるとされ、古代からの神域であり、そのため禁足地となって人が入れないため、今も原始の森が残っており、天然記念物に指定されている。 |
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