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東国とヤマトの接点
房総半島の沖合の海底では、太平洋プレート、フィリピン海プレート、ユーラシアプレートの三つのプレートがぶつかり合っており、その結果、房総半島では、激しい隆起や褶曲、侵食などの痕跡が地上に地層として露出している。
房総半島は、世界的にも稀な激しい地殻変動が現在進行形で起こっている場所である。
7世紀、日本で律令制が整えられていく段階の時期に、8箇所の神郡が定められた。一郡全体を特定の神社の所領・神域とし、郡からの収入は、その神社の修理・祭祀費用に充てられた。
日本が一つの国として統一されていく段階において、この8箇所が、特に重要な聖域として認識されていたということになる。その8箇所は、伊勢に2箇所と、北九州の宗像大社、出雲の熊野大社、和歌山の日前神社・国懸神社以外の3箇所が、房総と常陸であり、霞ヶ浦の近くの香取神宮と茨城の鹿島神宮、房総半島南端の安房神社だった。
そして、関東平野のどこからでも見える筑波山は、東国の神々を神話的に統合していく拠点だった。
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野島崎(南房総市)。房総半島および関東の最南端。古くは房総半島と離れた島であり野島と呼ばれたが、1703年の元禄大地震で隆起し、地続きとなったという説がある。 | 南房総市白浜の洗濯岩 | 沖ノ島(千葉県館山市)。かつては四方を海に囲まれた沖合いに浮かぶ無人島だったが、1923年9月1日に発生した関東大地震の際に地盤が隆起し、陸続きになった。 | 源頼朝の隠れ岩屋。源頼朝の隠れ岩屋。野島崎の浸食を受けた洞穴。源頼朝が武運再興の願掛けを行った際に突然時雨となり、この岩屋の中に身を寄せて雨を凌いだと伝わる。この大蛸は海神として祀られている。 | 安房神社(千葉県館山市) | 安房神社(千葉県館山市)1932年、この境内で、海食洞窟が発見された。この場所は、古代、海面が今より高かった時、波による侵食を受けていた場所だった。そして、この洞窟からは、人骨22体、貝製の腕輪193個、小玉3個と土器が出土した。この土器は、縄文時代晩期終末頃の東海系土器であるとの見解がある。そして、22体の人骨のうち、15体に抜歯の痕跡が認められた。 |
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安房神社(千葉県館山市) | 海南刀切神社海食洞窟の鉈切洞窟のある船越鉈切神社のすぐそば、海側には海南刀切神社があり、こちらの方へ境内に巨岩がある。かつては、この二つの神社は一つだったとされる。 | 海食洞窟の鉈切洞窟(千葉県館山市)海食洞窟の鉈切洞窟(千葉県館山市)は、船越鉈切神社の拝殿の裏側にある。縄文時代後期初頭(約4,000年前)を中心とした土器や動物や魚の骨、鹿の角や動物の骨で作られた漁の道具が多数出土した。 | 大寺山洞窟遺跡(千葉県館山市)。海食洞窟だが、1993年から1998年までの発掘調査で、丸木舟を棺に用いた「舟葬」という葬送儀礼のための舟棺が12基以上発見された。 | 香取神宮の要石。凸型の形をしていて、鹿島神宮の要石とペア。 | 香取神宮 |
鹿島神宮の奥宮。 | 大洗磯前神社(茨城県東茨城郡大洗町) | 上総一之宮 玉前神社(千葉県長生郡一宮町一宮)この神社は、西から島根の出雲大社、丹後の元伊勢の皇大神社、伊吹山、富士山を結ぶラインの東端にあり、出雲大社が太陽の沈む場所であるのに対し、太陽が昇る場所である。祭神は、海人の神、玉依毘売。 | 鹿島神宮の要石。鹿島神宮の要石。凹型の形をしている。巨大な岩の先端部分。 | 筑波山 大御堂境内のスダジイ推定樹齢400年。真言宗の寺である大御堂は、明治の廃仏毀釈までは筑波山神社と神仏習合により信仰されてきた。左背後に見えるのが筑波山の男体山。 | 筑波山神社ここは拝殿であり、本殿は、男体山と女体山の山頂に1棟ずつ鎮座している。そして、海抜270メートルの線(拝殿)以上を社地としている。 |
筑波山神社随神門の前の夫婦杉。随神門の左側に倭健命(やまとたけるのみこと)像が設置されている。 |
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