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 The history of reality 

はじめに

 古代の歴史はわからないところが多い。考古学や文献学の成果で、かなり解明されてはいるが、それでも、謎めいたところは多く、完全に理解することは難しい。しかし、完全に理解できないからといって、ないがしろにすることはできないし、安易に、わかったつもりになることも危険だ。

 歴史は、「皇国史観」のように単純化されて政治的に利用されやすい。神話や伝説は、決して過去のものではなく、現在も日本人の心に生き続けていて、日本各地において、神話や伝説にまつわる伝承が語り継がれ、数多くの祭礼が営まれている。また、初詣で神社にお参りするなど、日本人の暮らしの中に溶け込んでいる。

 多くの日本人が、理由はよくわからなくても、神話や伝説が、日本文化の源泉であり、日本人のアイデンティティであるとの認識を持っているからだろう。だからこそ、歴史は、日本人を一つの方向に揃えさせる時に、便利な思想となる。

 皇国史観というのは、数多くの神様の名前が連なり、非常に複雑に見えるが、日本の歴史が天皇を中心に形成されてきたのだと単純化することで、日本民族の統合の中心を万世一系の皇室に求めようとする思想である。これは、たとえば藤原氏のような権力者が、自らの都合の良いように行っているとは限らず、一つの国家的集団が何かしらの危機や困難を乗り越える時に、わかりやすいイデオロギーで人々を一致団結させる必要があり、そのために、こういう思想が必要だったのではないか。

 こみいった説明は、目の前の現実に追われる人々には受け入れられない。それでも、多層な事実をつなぎあわせて理解していく努力は、必要である。なぜなら、歴史に限らず生命現象というのは、偶然と必然による無数の関係性の総体であり、全体を形成する各部分の相互の関係性の豊かさに、生命の歓びが宿っているからだ。

 神は、物事の中心に居座った単純な原理ではなく、細部に宿って、複雑精妙にうごめいている。

 宇宙の構造を解く方程式は、細部に宿る神のイレギュラーな振る舞いに翻弄され続けるが、そのことに落胆する必要はない。それ自体が、生命の新しい展開のきっかけであり、生命や歴史は、そのように連綿と続いていくものだから。

 歴史は人々の好奇心を誘う。邪馬台国がどこにあったか、色々な議論が重ねられている。しかし、邪馬台国がどこであろうが、奈良にも九州にも、そして、それ以外の場所にも、古墳や銅鐸や鉄器などが多数発見されているのだから、全国的に、組織的な活動があったことは間違いない。大事なことは、そうした人間組織が、どのように整えられ、どのように治められていたかだ。

​ 人間も、他の生き物と同様、時には戦いがある。しかし、戦い続けることは種の生存に適っていない。また、台風、地震、疫病なども、たびたび人間を苦しめてきた。人災であれ天災であれ、災いが転じて福となるという願いを心の中に抱くことで、人間は、堪え難い苦しみの中で希望を捨てず、生きることができる。人間は、現在だけでなく、過去と未来の時間を現在に重ねることで生きており、そのための苦しみも生じるから、その苦しみを乗り越える精神も必要なのである。

 だから、過去も現在も未来も変わらない普遍の原理を、古代から現代まで探し求めている。

 

 

葛木
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