千年の都 京都
Kyoto Area
現世と異世界の交わる世界
京都は、世界でも類を見ないほど長い期間、日本の都だった。京都より以前に都を置かれた平城京や藤原京など、どの都も数十年であったことを考えると、一千年という歳月は、別次元の長さだ。
京都は、鴨川と桂川という大河が東西に流れ、その上流に、度重なる戦乱や震災などがあっても復元できる材木資源の供給源と、それらを運ぶ河川に恵まれていた。
さらに、京都は、風水で言う理想の地形、四神相応の地であると言われるが、それ以上に、複雑で綿密な呪法の組み合わせによって創られており、今でも、至るところに、その徴を見ることができる。
比叡山が、東北の鬼門にあたることはよく知られているが、比叡山の麓、小野郷の八瀬に、桓武天皇の同母の弟で藤原種継暗殺の事件の関与を疑われて憤死した早良親王を祀る崇道神社がある。また京都の西の出入り口には、桓武天皇の母、高野新笠の陵墓がある。
平安京に遷都した桓武天皇は、京都を守護するために様々な呪術を施している。
*これらは、ピンホールカメラで撮影した写真です。写真の上をクリックすると、画像が大きくなり、キャプションが表示されます。
京田辺 月読神社隼人舞発祥の地。この神社の真南に甘南備山があり、その頂上に、月読神が降臨したとされる。甘南備山、月読神社の真北が、平安京の朱雀通り(平安京の真ん中)である。平安京に遷都する時、甘南備山の頂上から位置決めが行われた。 | 双ヶ岡太秦に鎮座する蚕ノ社の真北に三つの丘があり、その頂上に、古墳がある。一番北の丘の頂上には首長クラスの陵墓、一番南の丘には群墳がある。秦氏のものと考えられている。 | 宇治田原町 猿丸神社 | 京都太秦の蚕ノ社の三本の鳥居京都太秦の蚕ノ社の三本の鳥居。鳥居の方向は、北は双ヶ岡、雲ヶ畑、西は松尾大社、東は石山寺を指している。 | 首塚大明神(鬼の首塚)古代、老ノ坂は、山城国と丹波国の境にあった。峠の南には、大江山(大枝山)480mがある。平安時代、ここに酒吞童子という鬼が住み着いていたとされる。 源頼光たちが鬼を退治し、その首を京へ持ち帰ろうとしたが、老ノ坂付近でその首を持ち上げることができなくなってしまった。そこで、その首を、ここに埋めたとされる。 | 松尾大社松尾大社は、背後の松尾山が神奈備で、山中の磐座が聖所だった。701年、文武天皇の勅命で秦氏の秦忌寸都理(はたのいみきとり)が社殿を設けた。平安京遷都後、西の松尾大社は、東の賀茂神社とともに、「東の厳神、西の猛霊」と呼ばれ、平安京の守護神として尊崇された。祭神は、比叡山の麓にある日吉大社と同じ大山咋神(オオヤマクイ)。この写真の滝は、本殿の裏にあり、松尾山の湧水が集まった滝で、日本の古くからの水神、罔象女神(みずはのめ)を祀っている。松尾大社は酒の神としても信仰されているが、松尾山からの湧水を酒に混ぜると腐らないという伝説もある。全国に創立された松尾神の分社は1,280社にも及ぶが、酒造りと堰や溜池などの灌漑事業を全国に広げた秦氏と関係が深い。 |
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鴨川源流 雲ヶ畑 志明院鴨川の源流、「雲ケ畑」の岩屋山志明院。650年に役小角が草創。その後829年、水源地を祈願し祀らなければ暴れ川である賀茂川は治まらず都の平穏はない 」と、淳和天皇の命で空海によって再興されたと伝わる。 | 新日吉神宮(左)京都東山区 新日吉神宮。豊臣秀吉が葬られている阿弥陀ヶ峰の西麓に鎮座する。阿弥陀ヶ峰(鳥辺山) を中心にして西に広がる山麓一帯は、平安時代以来、鳥辺野の呼ばれる墓所である。祭神は、松尾大社と同じ大山咋神(おおやまくいのかみ)。阿弥陀ヶ峰の真南には、秦氏が、松尾大社とともに神を祀った稲荷山がある。 | 首塚大明神 | 醍醐寺の塔頭の金剛王院(一言寺)(右)醍醐寺の塔頭、別格本山の金剛王院(一言寺)の樹齢800年といわれるヤマモモの木。平安京の東南、風門にあたるところに小野小町が暮らしていた小野郷があり、ここに醍醐寺がある。この近くを流れる山科川は、宇治川と合流し巨椋池に至り、海上交通の要所だった。 | 嵯峨野嵯峨野の竹林。この中に、伊勢神宮に仕える斎王が伊勢に赴く前に身を清める場所であった野宮神社が鎮座している。野宮神社は、『源氏物語』の第十帖、賢木(さかき)の巻に登場する。斎宮となった六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)の娘、後の秋好中宮(あきこのむちゅうぐう))が、野宮で潔斎生活を送り、母娘とともに伊勢に向かう直前、光源氏が野宮神社を訪ねる。光源氏と悲しい恋に落ちた六条御息所は、源氏物語の中で、源氏の正妻である葵を呪い殺すなど、怨霊として何度も登場する重要な登場人物である。 秦氏の氏寺ゆかりの広隆寺や蚕の社などがある太秦の西、嵯峨野は、古代、秦氏によって開拓された。秦氏は、桂川に堰を築き、その水を灌漑用水として利用して農地を発展させた。また、山林開発の神を松尾山に祀り(松尾大社)、農耕守護の神を稲荷に祀った。 | 紫式部の墓紫式部と小野篁の墓が並んで設置されている。二人が生きた時代は、二百年の隔たりがあるが、物語の伝承者としての猿女氏を管理していた和邇氏(後の小野氏)と、紫式部とのあいだに何かしらの関係があるのか? |
宇治平等院宇治平等院鳳凰堂。宇治は、『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台。平等院の地は、9世紀末頃、光源氏のモデルともいわれる左大臣で嵯峨源氏の源融の別荘だったが、後に、藤原道長の別荘「宇治殿」となった。道長の子の頼通は「宇治殿」を寺院に改め、西方極楽浄土をこの世に出現させたかのような阿弥陀堂が建立された。開山は小野道風の孫で、小野氏の系譜に連なる明尊である。 | 円山公園(右)円山公園の祇園枝垂桜。円山公園内の東北の隅にある安養寺(あんようじ)は、 法然・親鸞両上人の念仏発祥の地、「吉水草庵」旧跡として知られる。法然は、30数年間、ここを本拠にして専修念仏の教えをひろめ、後に親鸞が、この地に法然を訪ねて入信した。法然の母親は、秦氏である。 | 青蓮院天台宗の門跡寺院「青蓮院」境内の西側に5本のクスノキの巨木がある。背後の東山の山頂には、青蓮院の飛び地があり、そこに将軍塚がある。桓武天皇が奈良から長岡、さらに京都中心部へ都を移そうとしたとき、和気清麻呂と共に、この場所で京都を見下ろして遷都を決めたとされる。奈良時代から厄災が続いた後、「平和な都を作る」という願いを込めて、将軍の像を作り、その像をこの地に埋めて、塚を作った。都の安泰を祈ってつくられた将軍塚は、異変が起こりそうになれば鳴動した。 | 東山(左)青蓮院から東山山頂の将軍塚までの山中に、素朴な地蔵菩薩が数多く見られる。 | 伏見稲荷伏見稲荷神社。稲荷山全体が神域。稲荷山は、標高232メートル。一ノ峰、二ノ峰、三ノ峰という三つの峰に円墳があり、古くから神の降臨地とされていた。 その後、711年に、秦氏の伊侶巨秦公(いろこのはたのきみ)が勅命を受けて稲荷山の三つの峯にそれぞれの神を祀り、この地は、秦氏の聖所となった。 京都の太秦に拠点を置いた秦氏は、701年、松尾山に松尾神を奉鎮したが、7世紀頃、今の桂川の大堰を築堤して嵯峨野を開拓し、農業地へと発展させた。また、亀岡の湿地帯も秦氏によって開拓された。 奈良期から平安期にかけて、当時外戚として勢力を伸ばしていた藤原氏と姻戚関係を結び、長岡遷都やこれに引き続いて行われた平安遷都の際にも、河川の改修や都城の造営等で大いに力を発揮した。また、平安京遷都の前、長岡京への遷都を指揮して暗殺された藤原種継の母は、秦氏だった。 松尾大社の西、洛西の御陵大枝(おおえ)山麓に、桓武天皇の母・高野新笠(たかののにいがさ)が葬られた円墳がある。高野新笠は秦氏と同じ渡来人の土師氏であるが、亀岡と嵯峨野の間、秦氏の影響力の強かった場所に、桓武天皇の夫人、藤原旅子を含め、桓武天皇の親族 | 武信稲荷神社(左)武信稲荷神社 樹齢約850年の榎の木。平重盛が平重盛が安芸の宮島厳島神社から苗木を移したと伝えられている。弁財天が宿るといわれ、その生命力とエネルギーから健康と長寿の神として信仰を集めている。 |
武信稲荷神社(右)幕末の頃、京都見廻組や新撰組などから命を狙われ身を隠していた坂本龍馬。彼の妻となった楢崎 龍(ならさき りょう)は、二人がよく会っていた武信稲荷神社の榎の木(左ページの写真)に「龍」と刻まれた字を見て、龍馬が生きていると知り、再開を果たすことができたというエピソードがある。 | 東福寺 | 今日吉神社(右)新日吉神宮の神木、樹齢500~800年といわれるスダジイ。本殿裏、巨石の隣にそびえている。 | 宇治上神社宇治上神社。祭神は、応神天皇と和珥氏の日触使主(ひふれのおみ)の娘、矢河枝比(やかひめ)との間に生まれた皇子、宇遅之和紀郎子(うじのわきいらつこのみこと)。天皇に寵愛され皇太子となるが、異母兄の大雀命(おほさざきのみこと)、のちの仁徳天皇に皇位を譲るべく自殺した。古代、宇治川は、和邇氏(小野氏の祖先)の勢力下にあった。 | 西本願寺西本願寺。JR京都駅のすぐ近くに、浄土真宗の東本願寺と西本願寺がある。織田信長と戦った石山本願寺は、和睦派と抗戦派の2つに分裂し、和睦派は豊臣秀吉の保護を受け西本願寺を建立。その後、徳川家康は、本願寺勢力の分断を画策し、抗戦派に寺地を寄進して東本願寺を別に建てさせた。その結果、西本願寺は、繊細優美な桃山文化を色濃く伝え、東本願寺は、武骨ながら、建築面積において世界最大の木造建築物である。 | 山住神社の磐座(岩倉)(左)京都の北、岩倉盆地の山住神社。神体は拝殿背後の磐座で、古代祭祀の神座だった。平安京遷都の時、京都を守護するために定めれた東西南北4つの磐座の1つ。江戸時代末期、岩倉具視は、倒幕急進派の弾劾を受け、5年間、この地に幽棲していた。『源氏物語』で、光源氏が、生涯にわたって大切にした紫の上と出会ったところも、この岩倉である。 |
今熊野神社後白河法皇の創建。樹齢900年と言われる楠の大木。 | 京都最大の前方後円墳。天皇の杜古墳。(紀元4世紀)京都の桂川よりも西から亀岡との境にあたる大枝山あたりには、京都で一番古い神社、松尾大社があり、京都で最大の前方後円墳、天皇の杜古墳がある。この古墳が作られたのは4世紀。そして、桓武天皇の母親で土師氏と百済系渡来人の混血である高野新笠や、桓武天皇の妃の藤原旅子の陵墓がある。さらに、西の端の大枝山の老ノ坂には鬼の首塚がある。 桂というのは、カツラの木のことではなく、古代中国において、月に生えていると考えられていた想像上の樹木のこと。だから、桂川沿いに桂離宮があるが、あれは観月のための舞台であり、その下流には、渡月橋という名の橋もある。すなわち、桂川を西に超えることは、月の世界、つまり、あちらの世界なのだ。 | 高野新笠の陵墓。桓武天皇の母、土師氏と百済からの渡来人のあいだに生まれた高野新笠の陵墓。松尾大社の西、京都と亀岡のあいだには、高野新笠の陵墓や、桓武天皇の妃で淳和天皇の母親である藤原旅子の陵墓などがある。 |
There is neither beginning nor end in the work of life, This remains unchanged in the past,the present,the future, Everything works, continually complementing, The pattern changes constantly. Life spreads all throughout nature without division, What eats others is eaten by others, The previous condition limits the later one. However life being eaten results
いのちの働きに、初めも終わりもない。 過去、現在、未来にわたって変わることもなく、 あらゆるものが、働き合い、補い合いながら連続し、 その模様は、たえず変わり続ける。 いのちは、すべてのものに分け隔てなく行き渡っているが、 食べるものと食べられるものが存在し、 前の条件が後のものを限定する。 しかし、食べられることで別の形で生きることや、 前の条件が壊れて次の土台となることもある。 時には、いのちの冒険によって、新たな生の条件が作られる。 水中から陸上へ、大地から空へ、森からサバンナへ、大陸から別の大陸へ、 新たな生の条件によって、多様なすみわけが進む。 そしてまた、互いに関係し合い、調和と安定を目指し、矛盾を生む。
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There is neither beginning nor end in the work of life, This remains unchanged in the past,the present,the future, Everything works, continually complementing, The pattern changes constantly. Life spreads all throughout nature without division, What eats others is eaten by others, The previous condition limits the later one. However life being eaten results