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日本海への道、瀬戸内海への道
丹波から若狭 へ、摂津から河内へ
Wakasa,Tango,Tanba,kawachi,settu Area
古代の船は風と潮の流れに頼るしかなかった。その為、朝鮮半島の南西部、百済あたりから船に乗ると九州に上陸し、南東部、新羅あたりから船に乗ると若狭湾に上陸したと考えられている。
瀬戸内海は、小島が多いために潮の流れが複雑で、航海は易しくはなかった。そのため、大陸から畿内へと至るために、日本海側から兵庫県や福井県の河川を利用する道が重要で、海人と呼ばれる人々が活躍した。彼らが開いた道は、住吉神など海上交通と関わりの深い神が要所に祀られていることで想像できる。
若狭湾と播磨は、由良川と加古川で結ばれるが、このあいだの分水嶺の標高は95mしかなく、日本でもっとも低く、日本海と瀬戸内海側を簡単に行き交うことができる。また、由良川から武庫川へと抜ける道の途中、三田は、古代、大和の大神神社の荘園であり、そこから六甲山、中山寺などのある宝塚、貴族の崇敬が篤かった廣田神社がある「西の方の宮」という意味の西宮、河内へと至る。
この道の途中には鉱山が多く、大江山などの鬼伝説と鉱山関係者の関係を指摘したのは民俗学者の谷川健一だった。
古くから日本にいた人々と渡来人が、もっとも激しくせめぎ合ったのがこの地域なのかもしれず、出雲神話をはじめ各地に残された謎めいた伝承と、川や山など昔から変わらぬ風土から、この国の揺籃期のことが偲ばれる。
*これらは、ピンホールカメラで撮影した写真です。写真の上をクリックすると、画像が大きくなり、キャプションが表示されます。
三木 志染の地の姫石神社子午線のすぐそばに雄岡山と雌岡山という双子の山(たかさも形もほぼ同じ)が東西に並んでおり、雌岡山の頂上に神出神社が鎮座するが、そのすぐそばに、古代からの磐座信仰、姫石神社がある。 | 亀岡の御霊神社。祭神は吉備津彦命。この神社の目の前から、つい最近、巨大な古代都市、古代寺院遺跡が発見され、現在も調査中だ。 | 清荒神境内の一番奥、不動明王を祀る龍王滝。清荒神は、第59代宇多天皇が、「理想の鎮護国家、諸国との善隣友好を深め戦争のない平和社会、万民豊楽の世界を開く」ために清荒神を作らせた。 | 多田銀銅山の瓢箪間歩。多田銀銅山の瓢箪間歩。ここから出た銀が豊臣秀吉の財政を潤わせた。秀吉が、馬に乗ったまま、この坑道に入ったとされる。 | 多田銀銅山の青木間歩。いつの時代か特定できない手掘りの露天掘り。白っぽい岩石と黒赤っぽい岩石のあいだが鉱脈で、鉱脈にそって固い岩盤をノミやタガ ネを使って彫り続けるという気の遠くなるような作業。 | 妙見山の北に位置する野間の大けやき。妙見山の北に位置する野間の大けやき。高さ27.37メートル、幹まわり13.01メートル、最大枝張は幅39.3メートル、高さ36.2メートルの巨樹。樹齢1000年。西日本のけやきでは最大。全国では4番目。 |
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桂川 | 出石 奥矢根鉱山付近兵庫県但馬、出石地方で出会ったイースター島のモアイ像のような磐座。この周辺は、鉱山資源の豊富なところだが、出石神社は、土地の開拓者として、天日槍命(あめのひぼこのみこと)という渡来系の神(新羅の皇子)を祀っている。天日槍命は、神功 皇后の母親の祖先。 | 小浜湾福井県小浜市。若狭湾とその内湾である小浜湾に面する古くから天然の良港で、律令時代以前からヤマト王権の日本海側の入り口として重要視され、栄えた。 また、日本海にのぞみ、豊かな自然に恵まれた若狭は、古代、伊勢志摩や淡路と並んで、海産物や塩など豊富な食材を都に送り、朝廷の食を支えた「御食国」(みけつくに)のひとつであり、御食国の時代以降も「若狭の美物(うましもの)」を都に運び、京の食文化を支えてきた。 「鯖街道」と呼ばれる若狭と京都をつなぐ街道群は、食材だけでなく、様々な物資や人、文化を運ぶ交流の道でもあった。 人々の往来によりもたらされた祭礼、芸能、仏教文化は、街道沿いから農漁村にまで広く伝播している。 小浜にある若狭神宮寺は、東大寺二月堂への「お水送り」が行われる寺である。 この神宮寺と、本州最南端の潮岬を結ぶラインは、南北の垂直ラインであり、そのライン上に、平安京、平城京、大和、熊野など歴史的に重要な場所が存在している。 |