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蘇りの聖地
紀伊、熊野、吉野へ
Kii、Kumano、Yohsino Area
古来より日本において、山は、神や祖先の霊が宿る神聖な場所であるという考え方がある。熊野への信仰は、それが最も顕著に現れており、この地を訪れると、日本固有の宗教のあり方を、色濃く感じることができる。
熊野の豊かな自然は八百万の神々への信仰とつながり、厳しい自然は熊野修験に代表される山岳宗教を育んだ。そして、神と仏が1つになった熊野権現は、貴賎男女の隔てなく、浄不浄をとわず、なんびとも受け入れた。その救いを求め、皇族や貴族をはじめ、あらゆる階級の人々が、この山深いこの地を目指した。熊野への道は、浄土への道だった。
そして、熊野と大和を結ぶ吉野は、歴代の天皇や貴族が訪れる遊興の地だった。
とりわけ吉野離宮のあった吉野川沿いは、縄文や弥生の時代から多くの人々が住み着き、祭壇と見られる環状配石遺構も発見されている。
仏教伝来後は、吉野においても多数の寺院が建てられている。さらに、役小角が、山岳信仰と仏教を習合した日本独自の修験道を開いた。
*これらは、ピンホールカメラで撮影した写真です。写真の上をクリックすると、画像が大きくなり、キャプションが表示されます。
Photographs by Tsuyoshi Saeki
伊太祁曾神の鳥居を出た所の切り通し(樹木の断層)樹木の神、五十猛神は、最初は紀ノ川河口の日前宮、そして、亥の森と移された後、この伊太祁曽神社に祀られることになった。伊太祁曽神社のまわりは、倒木が重なった地層になっている。 | 日前神宮・国懸神宮和歌山市の日前神宮・国懸神宮は、現在は、一つの境内の中に二つの神社が鎮座し、ともに、伊勢神宮内宮の神宝である八咫鏡と同等のものとされる鏡を御神体としている。この二つの鏡は、アマテラスが岩戸に隠れてしまった時、誘い出すために作られた鏡であるが、あまり美しくなかったために使われなかったものという、不可解な意味付けがなされている。つまり、出どころは同じだけれど、正当でなかったものということになる。しかし、この二つの神宮は、真南に向かう鳥居の正面にはなく、左右に分かれて鎮座しており、その正面の空間には、かつて五十猛神が祀られていた。 | 吉野の宮滝遺跡のすぐ下の吉野川。(左)吉野の宮滝遺跡のすぐ下の吉野川。縄文遺跡と弥生遺跡が重層している。近年の発掘調査によって、ここが吉野離宮でないかと推定される。持統天皇は吉野宮に33回も行幸している。ここが吉野宮であるかどうかの議論は続いているが、縄文、弥生の集落があったことは発掘 調査でわかっており、この河原で、古代人が身体を洗い、炊事を行っていたことは間違いない。 | 伊太祁曽神社の元宮、亥の森紀国(和歌山)は”木国”であり、五十猛神の土地である。五十猛神は、木と船の神なので、船木氏のイメージが重なる。また、紀国は、中央構造線上にあり、水銀の産地である”丹”という地名が多い。五十猛神は、もともと、現在の日前神宮・国懸神宮のところに祀られていて、その後、この写真の「亥の森」のところに移り、さらに現在の伊太祁曽神社に移された。 | 吉野 西行庵。吉野の西行庵。「願わくば花の下にて春死なむその如月の望月の頃」 俗世間を離れ、桜の名所、吉野に三年間、侘び住いをした西行。西行を師と仰ぐ芭蕉は、ここを二度訪れた。西行よりも後の時代の俳人や茶人も質素な庵で侘び住いをしているが、西行庵は、それらとは比べ物にならないほど小さく、そこに至る道のりも険しいものだ。こんなところで冬も過ごしたのかと、西行 の澄み切った覚悟に圧倒される。 | 吉野、丹生川上神社のほとりの夢淵にある東の滝。(右)吉野、丹生川上神社の夢渕。高見川・四郷川・日裏川の三つの川が合流する。「日本書紀」によれば、神武天皇が丹生の川上にのぼり天神地祇を祀って戦勝を祈願された所。丹生川上神社の祭神は罔象女神(みつはのめのかみ)。古代より「水」を祭り、祈雨・止雨を司る神社として朝廷の崇敬を集め、万葉から奈良時代にかけて歴代天皇の行幸があり、その宿泊地が吉野離宮だった。しかし、丹生の地名は水銀鉱床と関係が深く、この地もそうだったと考えられる。史実として、今はダム建設で水没してしまった丹生川上神社上社の旧境内地(ここから南西に7km)から、水銀朱を精製したと思われる縄文中期の石皿が出土している。 |
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高野山 奥の院空海が高野山を開創するにあたって、高野山の麓にある丹生都比売神社が神 領を寄進したと伝えられる。「丹」とは辰砂(しんしゃ)のことであり朱砂とも言うが、水銀の原鉱であり朱の原料でもある。古くから水銀は漢方薬として使われ(不老長生薬と信じられた)、朱(赤色)が得られるので塗り物に使われ、さらに奈良大仏建造用として大量に用いられたように金メッキや金銀の精錬に不可欠な鉱物だった。水銀の産出が確認される鉱山の大半が、中央構造線に沿って位置し、高野山の奥の院、丹生都比売神社、奈良の宇陀や吉野、そして伊勢の地中にも水銀鉱床があった。紀伊半島・奈良一帯に聖地が多く、日本史で重要な土地であった理由は、辰砂の存在に負うという説もある。 | 高野山 奥の院高野山、奥の院。参道には織田信長、武田信玄、豊臣秀吉、伊達政宗など戦国時代の大名たちをはじめ、その数20万基と言われる石塔が並ぶ。高野山の信者にとって空海は今も生きて瞑想を続けていると信じられ、空海の入滅後1200年にわたって、空海廟に食事を運ぶ生身供(しょうじんぐ)が続けられている。 |