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鬼海弘雄と街の深さ

                                 

 鬼海弘雄が撮る東京のモノクローム写真は、狭く限定されたフレームのなかに、終わりのない奥行を持っている。視えないものとなって静まりかえる街の奥行は、そのまま時間の膨大な堆積に結びつき、その場所が含む過去の全体に通じている。この写真集では、特にそうだ。ここに収められたモノクロームで無人のショットは、視野の拡がりというものを厳しく拒んで、私たちの視線をフレームの奥へ、視えない向こうへと導くことに、細心の注意を払っているように見える。そこに働くものが、風景を凝縮し、どこまでも掘り進もうとする純粋に写真的な視覚の力であることは間違いない。

 当たり前のことだが、肉眼による視覚にはフレームがない。ないにも関わらず、私たちには浮動する視野の限界が、自分の身体の動きと同時に与えられ、この限界は気に留められることもない。反対に、写真という視覚にフレームがあることは、写真家にとって最も重要なことである。一枚の写真を自律した一個の作品、あるいは何ものかについての<表現>にさせるものは、フレームの存在だと言っていい。

 大雑把に考えて、フレームにはふたつの機能がある。ひとつは、外界の拡がり全体を限定し、観る者の視線をそのなかに集中させること。もうひとつは、そのように限定された視覚の枠組みを、その外に無限に在るものについての表現、あるいは啓示として用いることである。アパートの窓にぶら下がっている洗濯物の写真が、宇宙についての確固とした啓示になることは、場合によって可能である。もちろん、フレームが持つこのふたつの機能は、同時に成り立つし、成り立つのでなければ、写真は優れた表現にはなり得ない。

 この写真集に集められたモノクロームで無人のショットは、東京という化け物じみた拡がりと時間の諸層とを持つ大都市のなかで、そこからこぼれ落ちるかのように自生している暮らしの場所を、いたって狭いフレームのなかに引き込み、凝視している。視界は、建物の壁や路地の階段で遮られ、周囲の景観は、まるで窺い知ることができない。

 しかし、写真の視覚は、そこで停止してはいない。捉えられた建物の壁、ドア、看板、窓、階段、行き止まりの路地、そういうものはみなその向こうにある何ものかを限りなく感じさせる。それは建物の内部だろうか、路地の向う側だろうか。そこで営まれる暮らしのざわめきだろうか、過ぎ去った出来事だろうか。もちろん、そういうものでもあるだろう。けれども、そんな仄めかしは、優れた写真家にとっては何でもない。フレームが閉ざす視えない向こう側、その領域に私たちが視ているもの、あるいは聴いているものは、どんな輪郭も色合いも、音も匂いもいまだ産まれていない永遠の静まりである。

 すべての現実は、その静まりのなかから現われ、とどまることなく、その領域に沈み込んでいく。私たちの暮らしは、どのような瞬間にも、こうした永遠に浸されているのでなければ、現われてくることさえない。為すべき行動に縛りつけられた生き物の肉眼は、そこにある<二重の現在>に決して気づかないし、気づく能力を欠いている。だが、現在がこのように二重になったものでないならば、この世界は、在ることも変化することもできない。鬼海弘雄の写真は、<現在>というもののそうした二重性を、強い独特のアクセントをもって、実にはっきりと感じさせる。

 アクセントはどこから来るか。彼がいつも同時に捉え、凝縮させるふたつの次元の独特の隔たりから来る。まず、猥雑な細部をいっぱいに湛えた街の無数の断片がある。それらを生み出し、そのなかで生き続ける人間たちへの強い愛着、痛いまでの親しみ、祈りのように起こってくる共感、そうした心情が鬼海弘雄のなかに生まれ続けていることは、人生ひととおりの経験がある者なら、誰にもわかるだろう。それは、紛れもない彼の天分であり、一種の烈しい文学者気質なのだ。しかし、写真家である彼は、その地点から、はるかな距離を一挙に跳ぶ。

 ここに集められた写真が、すべてモノクロームだということには、深い根拠がある。写真という機械映像の本質は、外界に充満する光をただ制限すること、少なくすることにあるから、そこには色彩という身体の感覚要素が入り込んで来る理由がない。写真の色は、光から像を引きだす機能に付け加えられた何らかの化学現象による。そうやって付け加えられた色は、生きた身体のなかに感覚が引き起こす色彩とさまざまな類似の関係を持つ。

 鬼海弘雄が、モノクロームの写真によって断ち切っているものは、この関係にほかならない。断ち切ることによって、彼が私たちに視させようとするのは、肉眼の視覚とは無関係に在るもの、今、目の前に出現していると同時に、それをまさにそのものにし続ける、<永遠の現在>のなかに在るものである。写真機による視覚は、そのようにして二重になった現在を、私たちの眼にじかに顕われさせることができる。

 すると、どうなるか。猥雑な細部に満ちた街の断片は、そこに棲む者たちの暮らしの匂いを閉じ込めたまま、神秘の領域に沈み込むことになる。街の断片は、無人であることによって、人の暮らしの二重になった現在を、宇宙の闇に引き込むような強さで、ありありと映し出している。そのうちの一方は、現実の身体が持つ行為のほうへ、もう一方は、それらの一切が沈み込む<永遠の現在>のほうへ向かっている。

 この時、雨ざらしの壁の汚れは、風に揺れる洗濯物の皺は、路地に伸びる建物の黒い影は、滑稽な看板の文字は、何という輝きを獲得していることか。鬼海弘雄の写真の輝きは、宇宙に充満する光それ自体から来るほかないのだが、狭く小さな街の断片に怖しいほどの深さを創り出して、どこまでも静かである。

前田英樹

​思想家 前田英樹

​写真集「Tokyo View」より

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