Sacred world     Our great spirit from ancient time

過去と未来の橋渡しになる映像を

  日本というのは、たぶん世界の中でも実に特殊な国で、一千年以上も前の歴史を探るために、文献の量が十分で少なくても、古墳や神社が無数に存在していており、今日の我々に、重要な何かを伝えてきています。

  大陸の国々は、新しくやってきた侵略者によって、それ以前のものは徹底的に破壊されました。けれど、日本は、島国ということもあってか、一つの国を完全に支配できるような規模の侵略者はやってこなかった。だから、新しくやってきた先進技術や文化を持つ人たちは、日本にそれまで存在していた文化なり信仰を尊重しながら、新しい技術や知識を広めることに努めたようです。 明治維新や太平洋戦争の後でさえそうです。

 たとえば古墳などにしても、古墳前期から後期まで何百年も異なる時代のものが存在していますが、後の時代の人たちは、前の時代の古墳を再利用するということを、ほとんど行っていないのです。 その結果、日本には、過去の歴史の軌跡を順々に追えるように、様々なものが残っています。欧米文明にすっかり覆い尽くされているように見える今日の日本社会ですが、表層の下、潜在的な場所では、過去と現在は断絶されていません。 新しいものに対する情報ばかり優先的に伝えられる現代社会ですが、丁寧に過去を点検することによって、新しい視点、洞察、発想が得られるということもあろうかと思います。

  ピンホールカメラは、ファインダーも絞りもシャッターもなく、ただ暗箱とフィルムがあるだけで、光を通す穴は、わずか0.2mm。露出時間は、光の状態を見て勘に頼るしかなく、写る範囲も、だいたいこのあたりと見当をつけるだけです。 そして対象の前で立ちすくんだまま、何分か、ひたすら待ち続けるのですが、その場ではフィルムに像が写っているかどうかはわかりません。だから、フィルムを持ち帰って、現像した後に何ものかが写っているのを確認できると、それだけでホッとします。そして、こんなシンプルな仕組みなのに何ものかが写ることが不思議でなりません。

 最新のデジタルカメラで撮影すると、自分の眼で実際に見ている時より細部まで鮮明に写りすぎています。他の人の目にはどう写っているのか私にはわかりませんが、私自身に関して言えば、どうも、目で見たものと写真になったものでは感覚が違う。ピンホールカメラは、レンズを使っていないので、デジタルカメラの画像のような細密さはありませんが、自分が風景の中にいる時の見え方は、むしろピンホールカメラで映し出されたものの方が近いという気がするのです。

 実際に、現場にいる時、風が吹いていれば枝や葉は揺れ動いていてデジタルカメラの写真のようにシャープにディティールが見えるはずがなく、ただ周辺が揺れ動いているという気配だけが伝わってくるはずなのです。 高機能のデジタルカメラは高速シャッターで、揺れ動いているものを静止させてしまいます。そして薄暗い森の中も、高感度センサーで明るく鮮やかに処理をします。そうした処理によって、揺れ動くものの息吹や、闇に潜むものの息遣いは消えてしまいます。それが、現代の消費者のニーズになっています。しかし、消費者のニーズというのは、人々が意識できる範疇の欲求の反映にすぎず、世界は、自分では意識できていない物事との偶然の出会いに満ち溢れていて、その出会いが、人間を触発し続けます。

 意識によって限定された世界ではなく、無意識が感応する世界が、偶然と必然の組み合わせの中で写し出されることの驚き、それが私にとってピンホール写真の魅力です。何枚も撮って、その中の一枚だけかもしれないけれど、自分で恣意的に切り取った写真ではなく、偶然と必然の組みあわさった恩寵のような写真が受け取れるかもしれないと祈りのような心境で、暗箱に0.2mmの窓を開けて待っているのです。

  ピンホールカメラを抱えて、古くから人間が大切にしてきた場所を訪れていると、その地勢、山の形などからも、古代、人々がそこを聖地にした理由を、しみじみと感じる瞬間があります。 そして、古代の人たちが、先人から受け継いだものをとても大切にしていたということも感じられます。それは、現代社会に生きる私たちが失ってしまっている大事な感覚です。

 先人から受け継いだものを意識できないことは、未来に託すべきものを意識できないことと同一でしょう。現代人は、今この瞬間の自分の周辺だけに世界が狭く限定されてしまっていて、過去や未来とのつながりや、同時代においても、所属先や趣味・関心の違いを超えた普遍的なつながりを、喪失してしまっている。自分と世界が断絶されてしまっており、現代人を蝕む孤独や不安の根元的な理由はそこにあるのではないかと思います。その不安や孤独を紛らすために、刹那的な快感、喜悦を求めたところで、本質的な解決とはならないでしょう。

 私たち現代人に染み付いている思考、感覚を変えることは簡単ではありません。しかし、物の見方、見え方というのは、世界観を形成するうえで、とても重要な鍵を握っていることは間違いなく、視点に影響を与える表現が、鍵を握っているように思います。人間は、聞いたことよりも見たことの方を、より強く信じるようにできていますから。

  今、目にくっきりと見えているものに世界を限定してしまうのではなく、見えているか見えていないかわからない微妙な”あわい”に潜む何ものかに対する想像力を喚起する映像が重要で、そうした映像が、過去と現在と未来の橋渡しになるような気がします。 そして、その委託の作法は、私にとって、ピンホールカメラの受容的な撮影方法が適しているのです。

                                           2019.10.28  佐伯剛

This site was designed with the
.com
website builder. Create your website today.
Start Now
紀伊、吉野

Go to link